バイブル・エッセイ(1195)ゆるすべき理由

ゆるすべき理由

「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」(ルカ23:33-42)

 ピラトによる裁きから十字架上での死に至るまで、ルカは起こった出来事を淡々と、克明に語っていきます。今回わたしの心に強く響いたのは、自分を殺そうとする人々のために、イエスが、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈る場面でした。各地で起こる戦争のニュースを聞きながら、「『敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい』(マタ5:44)とイエスは言うけれど、それができれば苦労しないな」と思ったばかりだったからです。
 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」という教えが確かに実践可能な教えだということを、イエスは自分で証明しました。自分を殺そうとする人々、自分の敵のために、イエスはゆるしを祈ったのです。ゆるすべき理由は、その人々は「自分が何をしているのか知らない」ということでした。彼らは、自分の目の前にいる人が、神から遣わされた救い主であることを知りませんでした。指導者たちの言葉を信じ、イエスはユダヤ教を侮辱し、反乱を企てる大悪人だと思い込んでいたのです。
 これは、人間の限界といってよいでしょう。すべてを知り尽くすことができないわたしたち人間は、限られた不完全な情報に基づいて、「自分こそ正しい。相手は間違っている」と決めつけてしまうことが多いのです。そこに悪意はありません。単に、人間の知る力には限界があるということです。イエスは、人間のそのような限界をよく知っていました。だからこそ、自分を殺そうとする人々をゆるし、その人々のために祈ったのです。
 ここに、わたしたちが人をゆるすべき究極の理由があると思います。イエスは少なくとも、「自分が何をしているか」を知っていました。しかしわたしたちは、自分自身のことについてすら「自分が何をしているか」知らないのです。「絶対にゆるせない」と思っていたことでも、何年か、あるいは何十年かして振り返ってみると、「なぜ、あんなことで、そこまで腹を立てたんだろう」と不思議に思うことがありますが、それこそ、わたしたちの知識に限界があることの何よりの証拠です。長い目で見たときに、あるいは、全体から見たときに、自分がしていることが本当に正しいのかわたしたちは知らないのです。
 自分が何をしているのか知らないまま、「自分は正しい。相手は間違っている」と思い込んで傷つけあう。この悲劇を、どうしたら避けられるのでしょう。わたしたちにできる唯一のことは、自分の知識が完全ではないという事実を認め、相手をゆるすことだと思います。すべてを知り尽くすことができない以上、悲劇を起こさないためには、ゆるす以外に選択肢がないのです。とても難しいことではありますが、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」のは不可能ではありません。イエスはそのことを、ご自分の身をもって証明しました。イエスの模範にならい、わたしたちも互いにゆるし合うことができるよう祈りましょう。

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