バイブル・エッセイ(1199)十字架と復活の神秘

十字架と復活の神秘

 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。(ヨハネ20:1-9)

 弟子たちが墓の中に入り、その様子を見て、イエスの復活を信じた。ヨハネ福音書は、わたしたちにそう伝えています。もし誰かが遺体を持って行ったのなら、遺体を覆う布を外す必要はなかったし、まして顔を覆う布を丸めて置いていくはずがありません。イエスは、死者の中から立ち上がり、自分で墓から出て行ったように見える。どうやらこれが、イエスが言っていた復活ということらしい。弟子たちは、そう思い始めたのです。
 その意味を、弟子たちはすぐには理解できなかったでしょう。しかし、このあと、イエスとの直接の出会いを通して、弟子たちは復活の意味を少しずつ理解していきます。弟子たちの目に、惨めな敗北に見えたイエスの十字架上での死。実は、それは死に打ち克つ神の愛の勝利だったのです。わたしたちは、自分に死に、神の手にすべてを委ねることによってこそ、永遠の命に移される。死を恐れる必要はない。むしろわたしたちは、死ぬことによってこそ生きる。死の中にこそ、永遠の命が隠されている。イエスは、そのことを、身をもってわたしたちに教えてくださったのです。
 わたしたちは、日々の生活の中でこの真理を生きるよう招かれています。この真理の中にこそ、わたしたちの人生の喜び、わたしたちの人生の意味が隠されているからです。「自分に死ぬ」とはどういうことでしょう。それは、具体的に言えば、「すべてを自分の思った通りに動かしたい」という思いを捨てることです。「このやり方は気に入らない。わたしのやり方に合わせろ」と自分の思いを相手に押し付け、相手が逆らえば怒って相手を叩きのめす。それは、ある意味で気持ちのよいことかもしれませんが、わたしたちは、それだけでは決して幸せになれません。暴力や権力によって相手を無理やり従わせても、わたしたちは決して幸せになれないのです。
 わたしたちの本当の幸せは、相手を叩きのめすことにではなく、相手と和解することの中にこそあります。自分のやり方を押し付けるのではなく、自分に死んで、神の手にすべてを委ねる。「神さま、わたしたちが仲よくやっていくために、一番よい方法を教えてください」と祈ることによってのみ、わたしたちは本当の幸せにたどり着けるのです。本当の幸せ、永遠の命は、相手を無理やり従わせることではなく、和解し、愛しあうことの中にこそあるのです。
 三つの教会が死に、新しい一つの教会として生まれ変わるこのときに、あらためてこの復活の神秘を心に深く刻みたいと思います。イエスが十字架上での死、十字架上での神へのまったき委ねを通して永遠の命に移されたのと同じように、わたしたちは、日々の生活の中で自分に死ぬことによってのみ、神の子としての幸せ、永遠の命の喜びを生きることができるのです。自分の思いを押し付けることによってではなく、共に祈り、共に神のみ旨を見つけることによってのみ、わたしたちは永遠の命の喜びに満たされ、永遠に生きることができるのです。死ぬことによってこそ生きる。それがキリスト教徒であることを忘れず、十字架と復活の神秘を日々の生活の中で生きられるよう共に祈りましょう。

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