バイブル・エッセイ(1201)イエスの声を聞き分ける

イエスの声を聞き分ける

 そのとき、イエスは言われた。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」(ヨハネ10:27-30)

 「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」というイエスの言葉が読まれました。羊たちが飼い主の声を聞き分けるのと同じように、イエスの弟子はイエスの声を聞き分けるということです。羊飼いであるイエスは、いつも、わたしたちの心の奥深くからわたしたちに語りかけています。わたしたちは、その声を聞き分けることができるでしょうか。
 わたしたちの心の中には、「あれがしたい、これもしたい」「あの人は好きだけど、この人は苦手だ」などさまざまな声が鳴り響いています。それらの声の中からイエスの声を聞き分けるにはどうしたらよいでしょう。判断の基準になるのは、その声を聞き、その声に従おうと決めたとき、わたしたちの心の中に湧き上がってくる思いです。もし、その声を聞いているときはいい気持ちになるけれど、しばらくすると何とも言えず虚しくなるということなら、それはイエスの声ではありません。他方で、もしその声を聞き、その声に従おうと決めたとき、わたしたちの心に静かな喜びと平和が広がるなら、それこそイエスの声だと考えてよいでしょう。イエスの声を聞き、神の子としての本来の姿を取り戻すとき、わたしたちの心は静かな喜びと平和に満たされるのです。
 聖イグナチオは、戦争で大けがをし、病床にふせっているとき、自分の心に起こるこの動きに気づきました。騎士たちが活躍する物語を読み、自分もそのような生き方をしたいと思うと、そのときは心が躍るけれど、読み終わると心に虚しさが起こる。他方で、フランシスコやドミニコの伝記を読み、自分も彼らのように神に生涯を捧げて生きたいと思うと、読み終わった後も心に静かな喜びと平和が残るということに気づいたのです。聖イグナチオは、いつまでも消えない静かな喜びと平和を生み出す思いこそが、神の思いであり、イエスの呼びかけであると考えました。そして、怪我が治った後、神にすべてを捧げる人生を選んだのです。
 わたしたちの身近な例で言えば、たとえば誰かの悪口を言うときのことを思い出したらよいでしょう。親しい人と集まって誰かの悪口を言っているとき、わたしたちの心はすっきりさわやかになります。「言ってやった。せいせいした」というような感じです。しかし、しばらくすると、別の思いが湧き上がってきます。「あんなことを言ってしまったが、実はわたしだっていろいろな弱さがある。なんだか後味がよくないな」という思いです。それは、わたしたちの心の中に湧き上がった悪口の声、相手をののしる怒りや憎しみの声が、イエスの思いではなかったということに他なりません。他方で、さまざまな欠点があるにしても、「あの人にはこんなよいところがある。あんなよいところもある。力を合わせれば、きっとすばらしいことができるに違いない」と考えると、心はいつまでも消えない喜びと平和で満たされます。なぜなら、それこそがイエスの思いであり、わたしたちの心の中から語りかけるイエスの声だからです。
 わたしたちの心には、いろいろな声が鳴り響きます。それは人間である以上当たり前のことなのですが、大切なのは、その声を聞いたときにわたしたちの心に起こる反応に敏感であることです。心を静かにして自分の心の動きを感じ取り、いつもイエスの声の導く道、喜びと平和の道を選べるように祈りましょう。

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