バイブル・エッセイ(1202)イエスの愛を証する

イエスの愛を証する

 さて、ユダが(晩餐の広間から)出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:31-33a、34-35)

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とイエスが弟子たちに語りかける場面が読まれました。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」と言うのです。教会に与えられた宣教の使命について、これほど大切な教えは他にないでしょう。わたしたちがイエスの弟子であること、イエスによって救われた者であること、イエスこそが救い主であることを証明するには、互いに愛し合うこと、それも、イエスが弟子たちを愛したように愛し合うこと以外ないのです。
 イエスはただ「互いに愛し合いなさい」と言ったのではなく、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言いました。では、イエスは弟子たちをどのように愛したのでしょう。この前後の部分を読めば、イエスの愛がどれほどのものだったかが分かります。この言葉のすぐ前に、イエスは弟子たちの足を洗いました。まもなく自分を裏切り、敵に売り渡そうとしているユダや、十字架の出来事を前にして、自分を見捨ててだらしなく逃げ出していくペトロたちの足を、イエスは洗ったのです。なぜそんなことをしたのでしょう。それは、イエスが弟子たちを信頼していたからです。「この弟子たちは、やがて皆、自分を裏切って離れ去っていく。それは悲しいことだが、しかし、いつかきっとわたしの愛に気づき、わたしの元に戻ってきてくれる。なぜなら、この弟子たちは、神さまが与えてくれた、限りなく尊い神の子たちなのだから」、イエスはそのように信じて、弟子たちの足を洗ったのです。神の愛を信じ、弟子たちの心に宿った愛を信じて、弟子たちの足を洗ったのです。
 教会がイエスの弟子であること、イエスによって救われ、イエスの愛を生きる者であることを証明するためには、このような愛で互いに愛し合う必要があります。自分によくしてくれる相手だけを愛すればいいのなら、それは簡単なことです。しかし、それでは、教会はあっという間に分裂してしまうでしょう。なぜなら、教会はさまざまな弱さを持った人間が集まる場所だからです。「あの人に裏切られた」と感じるようなことも、残念ながら、ときどき起こります。そのたびごとに、「あの人とはもう絶交だ。口もききたくない」ということを繰り返せば、教会はたちまち険悪な雰囲気に包まれ、分裂していくでしょう。教会を訪ねた人は、「なんて冷たい教会なんだ。この人たちが言う愛なんて信じられない」と思うに違いありません。教会が、宣教のための共同体として生き続けるためには、イエスのように、自分を裏切る相手さえゆるすほどの愛が必要なのです。
 ではどうしたら、それほどまでに愛せるのか。その答えはイエスがすでに教えてくれています。イエスのように愛するために何より必要なのは、「この人は、神さまがわたしに与えてくださったかけがえのない兄弟姉妹、限りなく尊い神の子なのだ」と信じることなのです。その人を与えてくださった神を信じ、その人の中に宿った神の子の愛を信じることによってのみ、わたしたちは互いに愛し合い、イエスの愛をこの世界に証できるのです。イエスの模範に倣い、互いに愛し合うことができるよう、互いに愛し合うことによって、イエスの愛こそがわたしたちの救いであることを全世界に伝えられるよう、心を合わせて祈りましょう。

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