バイブル・エッセイ(1205)天に上げられる準備

天に上げられる準備

 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「聖書には次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。(ルカ24:46-53)

 復活したイエスが、弟子たちを祝福しながら「天に上げられ」る場面が読まれました。天、すなわち神さまの元からやって来たイエスが、地上での使命を果たし終え、再び神さまの元に帰って行ったのです。わたしたちがやがてたどる道をイエスが準備し、わたしたちに示してくださった場面と言ってもいいでしょう。すべての命は、命の源である神さまの元から地上に遣わされ、いつか再び神さまの元に帰っていくのです。
 ただし、天に上げられるためには、一つ大切な条件があります。それは、地上のものにしがみつかないということです。いくら神さまでも、わたしたちが地上のものにがっちりしがみついてたら、わたしたちを天まで引き上げることはできません。天に上げていただくためには、しがみついているものから手を放す必要があるのです。
 わたしたちがしがみつきやすいものが、この地上に三つあります。一つは自分の財産や地位、権力、名誉など、この地上で自分が手に入れたものです。「せっかく手に入れたんだから、絶対に手放さない」と地上のものにしがみついていては、天に上げられることができません。「神さまから頂いたものなのだから、神さまにお返ししよう。神さまはきっとまた、別のよいものを与えてくださるに違いない」、そう信じて手放すとき、わたしたちは天に上げていただくことができるのです。
 二つ目は家族や友人、自分にとって大切な人たちです。「この人とは決して別れたくない」とその人にしがみついていては、天に上げられることができません。「これまで一緒にいられたことに感謝し、神さまにお返ししよう。いつかまた、きっと会えるに違いない」、そう信じて手放すとき、わたしたちは天に上げていただくことができるのです。
 三つ目は自分自身です。「神さまがどう思おうと関係ない。わたしはまだ死にたくない」と自分自身の思いにしがみついていると、天にあげられることができません。「神さまが与えてくださった命なのだから、感謝して神さまにお返ししよう。神さまが呼んでおられるのだから、神さまの元に帰ろう」、そう思って自分の思いを手放すとき、わたしたちは天に上げていただくことができるのです。
 この地上で生きているあいだから、これらの執着を手放し、神さまの愛の中で永遠の命を生きるために定められたのが、清貧、貞潔、従順という三つの修道誓願です。清貧は財産や地位、名誉を手放す誓願、貞潔は人間への執着を手放す誓願、従順は自分の思いを手放すための誓願なのです。修道会の司祭、修道者たちは、これらの誓願を守ることによって、生きているあいだから天国の喜び、永遠の命を生きようとしているのです。
 これは、信徒の皆さんにとっても参考になることでしょう。修道者ほど厳しくは守れなかったとしても、それぞれに可能な限りで清貧、貞潔、従順を生きることによって、誰もが、この地上に生きているあいだから、天国の喜びを味わうことができるのです。生きている限り、すべてを手放すのは難しいかもれしません。しかし、少しずつ手放し、少しずつ準備していくことはできます。地上のものへの執着を少しずつ手放していき、いつの日か天に上げていただくことができるよう、心を合わせて祈りましょう。

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