キリストを誇る
主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。(ルカ10:1-9)
イエスが弟子たちを宣教に派遣するにあたって、「財布も袋も履物も持って行くな」と命じる場面が読まれました。「厳しい長旅に出るのだから、十分なお金や食べ物をもって行きなさい」と言うならわかるのですが、逆に、何も持っていくなとは、いったいどういうことでしょう。イエスは弟子たちに、何を望んでいたのでしょう。
第二朗読で読まれた、「主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」というパウロの言葉が、イエスの言葉を理解するための手掛かりになると思います。「財布も袋も履物も持って行くな」とイエスが命じたのは、「わたしたちには、イエス・キリスト以外に誇るものがあってはならない。だから、何も持って行くな」という意味だったと考えられるのです。
キリストを宣教すると言いながら、キリストを誇らずに、自分を誇ってしまう。そのようなことが、意外とよくあります。一番よい例が、神父たちがする説教でしょう。キリストの救いを告げ知らせるための説教なのですから、自分が入る余地などないはずなのですが、つい、「わたしはこんなにいい説教ができる、すごい神父なんだぞ」という気持ちが入り込むことがあります。その証拠に、信者さんが来て、「〇〇神父の説教は本当にすばらしくて、感動しました」と他の神父の説教を褒めちぎると、わたしを含めて多くの神父は、「じゃあ、わたしの説教はどうなんだ」と嫌な気持になるのです。
誇るべきは、こんなにも罪深く、弱いわたしたちを愛し、救ってくださったキリストなのですが、わたしたちはつい、キリストではなく自分を誇ってしまいがちです。「キリストは偉大だ」で終わればいいのですが、「わたしは、偉大なキリストによって救われた特別な人間だ」と自分を誇ってしまうことがあるのです。キリストを讃える立派な教会堂を作っても、「こんな立派な教会を建てられたわたしたちはすごい」という気持ちが入り込んだり、キリストを讃える歌を歌っても、「こんなにきれいな声で歌えるわたしはすごい」という気持ちが入り込んだり、そのようなことが起こりがちなのです。
わたしたちが誇れるのは、ただキリストだけだということを、深く心に刻みたいと思います。パウロでさえ、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」と告白しています。わたしたち一人ひとりは、弱く罪深い人間であって、「自分はこんなにすごいんだ」と自分を誇れる人間など、誰一人いないはずなのです。本当に偉大なのは、すぐに思いあがって自分を誇り、悪いことを始めるわたしたちを、それでも決して見捨てないキリスト。わたしたちを何とかして救いたいと願い、忍耐強く寄り添い続けてくださるキリスト。自分を裏切って逃げた弟子たちのために、十字架につけられたキリストだけなのです。七十二人の弟子たちと共に、キリスト以外に何も持たずに宣教の旅に出かけることができるよう、心を合わせてお祈りしまょう。
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