
信仰の火をともす
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」(ルカ12:49-53)
イエスが弟子たちに、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」と語る場面が読まれました。イエスが地上に投じた火、それは、イエスと出会ったときにわたしたちの心に燃え上がった火、わたしたちの心を喜びと力で満たし、宣教へと駆り立てる信仰の火だと言ってよいでしょう。フランシスコ教皇が「福音の喜び」と呼んだその火をこの地上にもたらすために、イエスは来られたのです。
その火を、イエスが灯した愛の火と呼んでもいいでしょう。「あなたはかけがえのない神の子だ。神はあなたを愛している。あなたの人生には、確かに意味がある」と告げるイエスの福音に触れるとき、わたしたちの心は喜びと力に満たされます。「神さまは、こんなわたしでも愛していてくださる。わたしたちは、誰もが、かけがえのない大切な命、神の子なのだ」、そう思うとき、わたしたちの心を満たし、わたしたちの心からあふれ出す喜びと力こそ、イエスが地上に投じた火なのです。
この火が投じられるとき、残念なことに分裂が起こります。「誰もがかけがえのない神の子であり、神はすべての人を愛している」と気づいた人は、自分と同じ神の子である貧しい人たちを放っておくことができなくなるからです。「困っている人たちを助けたい、世の中をよくしたい」という思いに駆られて動き始めた人の前には、「なぜそこまでする必要があるんだ。いまのままでもいいだろう」という人間の思いが立ちはだかります。そこで、分裂と対立が生まれるのです。
イエスの愛に駆り立てられ、あらゆる困難を越えて福音を宣教し続ける人生を、ヘブライ書の著者は「自分に定められている競走」と呼びました。長距離を走ると分かりますが、レースに出るとき、本当の競争相手は一緒に走っている人たちではなく、自分自身です。身体が疲れてくると、「なぜそこまでする必要があるんだ。もうあきらめて立ち止まれ」という声が、自分自身の中から聞こえてくるからです。そのような自分自身の声、自分自身の弱さを振り払い、自分に打ち克った人だけが、ゴールの喜びにたどりつきます。分裂と対立は、周りの人たちとの間だけでなく、自分自身との間にも生まれると言ってよいでしょう。外にある分裂と対立、内にある分裂と対立、その両方を乗り越えて、信仰の火を燃やし続ける。それがわたしたちに与えられた使命なのです。
では、どうしたら信仰の火を燃やし続けられるのでしょうか。くじけそうになるわたしたちに、ヘブライ書の著者は「気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい」と勧めています。イエス自身も、内と外にある分裂、対立と戦い抜きました。それほどまでにわたしたちを愛し、わたしたちのために戦ってくださったのです。その愛を思い出すとき、わたしたちはじっとしていられなくなります。「そこまでする必要はない。もう立ち止まれ」という誘惑を振り払い、再び走り出すことができるのです。イエスと出会うことで生まれる信仰の火を絶えず新たにし、守り続け、走り続けることができるよう、心を合わせてお祈りしましょう。
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