バイブル・エッセイ(1218)自分の十字架を背負う

自分の十字架を背負う

 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」(ルカ14:25-33)

「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、わたしの弟子ではありえない」、自分のあとについてくる大勢の人々に、イエスがこう語りかける場面が読まれました。「十字架」とは、神さまがわたしたちそれぞれに与えた使命だと考えてよいでしょう。イエスは、神さまから与えられた救い主としての使命を果たすことによって、自分の人生を神さまのため、人々のために捧げつくしました。そのイエスの弟子になりたいなら、その人も、自分の十字架を背負い、その十字架を通して自分を神さまのため、人々のために捧げ尽くす覚悟が必要だ。イエスが言いたかったのは、きっとそういうことでしょう。始めてもすぐに投げ出すことがないよう、それだけの覚悟があるのか、初めに「腰をすえて」よく考えてみなさいということです。
 使命の十字架を担うのは、ときに苦しいことです。人間の心は弱いので、どうしても欲望や感情に押し流され、「なぜわたしが、ここまでしなければならないんだ。こんなことやっていられるか」などと考えてしまうのです。わたし自身、忙しい日々の中でついそのように考えてしまうことがあります。イエスが「自分の命であろうとも、これを憎め」と言うのは、そのような弱さに打ち克てということでしょう。「使命」とは、命を使うということですから、自分の命にしがみついていては、使命を果たすことができません。しがみついてるうちに、わたしたちの命は、欲望や不安、恐れなどにむしばまれていくでしょう。本当に自分を愛しているなら、自分の命を生き生きと輝かせたいなら、命さえも憎まなければならない。自分にしがみつくことを止めなければならない。イエスは、わたしたちにそう教えているのです。
 イエスの教えにしたがって誘惑を断ち切り、神さまが与えてくださった十字架を通して、神さまのため、人々のために自分の命を捧げようと決心するとき、十字架は、わたしたちの喜びの源に変わります。「こんなわたしでも、誰かのために役に立つことができる」「わたしが生きていることで、喜んでくれる人がいる」という喜びが、十字架からとめどなく湧き上がってくるのです。その喜びをかみしめながら、「神さま、ありがとうございます」と感謝の祈りを捧げるなら、そのときにこそ、わたしたちは救われている、天国の喜びを味わっていると言ってよいでしょう。
 使命の十字架は、必ずしも教師や医者、神父などのような、社会の中での役割とは限りません。病気や、高齢による身体の衰えなども、神さまが与えてくださった使命の十字架として受け止めることができます。「神さま、この痛み、この不自由さを、あなたにお捧げします。イエス・キリストの苦しみと共に、どうぞお受けください」と祈るとき、病気や体の衰えでさえ、自分を神さまに差し出すための十字架に変わるのです。その捧げものに報いて、神さまはわたしたちの心を喜びで満たし、生きる力を与えてくださるでしょう。あらゆることを通して神さまに自分をお捧げし、十字架を担って救いの道を歩み続けることができるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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