バイブル・エッセイ(1224)神さまとの関わりの中で

神さまとの関わりの中で

 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(ルカ18:1-8)

 「神は、昼も夜も叫び求めている人たちをいつまでもほうっておかれることがあろうか」と、イエスが弟子たちに語りかける場面が読まれました。すぐに願いが聞き入れられなかったとしても、あきらめずに祈り続けなさい。そうすれば、道は必ず開かれる。イエスは、弟子たちにそのことを教えたかったのでしょう。

 あきらめずに祈り続けるとは、いつも心を神さまに向け続ける。神さまとの関りの中でこの世界を見ていくということに他なりません。この地上のことだけで見ると、どこにも希望がなく、どうにもならないと思える状況でも、神さまとのつながりの中で見れば必ず希望が見つかる。だから、どんなときでも、神さまのことを決して忘れてはならない。イエスは、わたしたちにそう語りかけているのです。

 たとえば、信徒数が減少し、高齢化も進んで、これ以上は聖堂を維持できない。修理することも、ましてや建て替えることもできず、聖堂を取り壊す以外にないという状況になったとしましょう。そのような状況になったとき、わたしたちは、つい、「もう駄目だ。この教会は終わりだ」などと考えてしまいがちです。これまで自分たちの力で維持してきた自慢の聖堂を取り壊すことは、自分の人生が否定されるに等しい。そう思って、絶望する人たちも出てくるでしょう。

 そんなときこそ、神さまに心を向けるときだと思います。神さまとの関りの中で見れば、まったく違う状況が見えてくるからです。そもそも、この聖堂を自分たちの力で建てたという考え方自体に問題があります。神さまとの関りで見るなら、この聖堂はわたしたちが自分の力で建てたものではなく、神さまが与えてくださったものなのです。神さまがそれを取り去られるなら、これまでの恵みに感謝しつつ、喜んでお返しする。神さまが、もっとよいものを与えてくださると信じて、何もおそれない。あきらめずに祈り続け、神さまとの関りの中で世界を見るなら、わたしたちはそのように考えることができるのです。実際のところ、この聖堂が建つ前は、普通の民家に集まってミサをしていた。そのような教会も多いはずです。その状況に戻って、家庭的な集会を続けることは、恥じたり、悔しがったりするようなことではありません。大切なのは、わたしたちが集まり、共に祈り続けることなのです。

 絶望せず、神さまとつながり続けるため、希望を持ち続けるためには、どうしても仲間が必要です。出エジプト記に、モーセが高く上げた手を、アロンとフルが両側から支えたという話が出てきますが、わたしたちは、そのように支え合うことによってのみ、神さまに希望を持ち続けることができるのです。誰も、一人で手を上げ続けられるほど強い人はいないのです。パウロは、テモテへの手紙の中で、「折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい」と言っています。わたしたちも、互いに励まし合いながら、心を上に上げ続けることができるように。地上のことだけを見て絶望せず、どんなときでも神さまとの関りの中で世界を見ることができるように、心を合わせてお祈りしましょう。

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