バイブル・エッセイ(1226)愛の河

愛の河

「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(ヨハネ6:37-40)

「信じる者がみな永遠の命を得ること、その人を終わりの日に復活させること」こそ父なる神のみ心だと、イエスが人々に教える場面が読まれました。永遠の命とは、死によって終わることのない命、いつまでも生き続ける命のことだと言ってよいでしょう。「知恵の書」に「主の愛のうちに主と共に生きる」と書かれているように、神の愛の中で神と共にいつまでも生きる。それが、「永遠の命」なのです。
 カトリック作家の遠藤周作は、遺作となった『深い河』の中で、神を「どんな醜い人間もどんな汚れた人間も、すべて拒まずに受け入れて流れる」愛の河だと表現しました。インドの大河、ガンジス川のイメージによるものですが、人間たちの喜びも悲しみも、清らかさも汚れも、すべてを溶かし込んでいつまでも流れ続ける愛の河、それが神だというのです。神が愛の河だとすれば、「永遠の命」とは、その河の流れの中で、いつまでも生き続けることだと言っていいでしょう。
 インドにいたころ、わたしもガンジス川の流れに手足を浸してみたことがあります。大量の土砂が流れ込んでいるためにドロッと濁り、灼熱の太陽を浴びているためにあたたかみを帯びた河の水は、まさにすべてを受け入れて流れる愛の河のイメージにぴったりです。すべての命はこの河によって育まれ、この河と共に生き、この河に帰っていく。すべての命は、すべて神の愛の中から生まれ、神の愛の中で生き、神の愛に帰っていく。ガンジス川の流れを見ていると、確かにそんな気がしてきます。
 神の愛の河は、わたしたち一人ひとりの心の中を流れている河だとも言えます。わたしたちの喜びも悲しみも、清らかさも汚れも、すべてをあたたかく包み込み、流れ続ける愛の河が、わたしたちの心の中にもあるのです。そのほとりに立ち、愛の流れに包まれるとき、心の中にあったつらい気持ちや苦しい気持ちは洗い流され、すべての傷は癒されていきます。わたしたちの心の中を流れる愛の河は、わたしたちに生きる力を与える命の河でもあるのです。
 死ぬとは、その愛の河の流れに帰っていくこと。その愛の河の流れの中で永遠に生き続けることだと考えたらいいでしょう。その河は、すべての人の心の中に、それぞれに流れている河であると同時に、全世界を貫いて流れる一本の大きな河でもあります。すべての人の命は、神の愛という一本の河に育まれ、その河に帰っていくのです。わたしたちがその河の流れに触れ、ぬくもりを感じるとき、わたしたちはその河の流れの中に生きている、亡くなった人たちの命と出会います。亡くなった人たちが自分に注いでくれた愛が、生き生きとよみがえり、まるでその人が目の前に生きているように感じられる。そんな体験ができるのです。今日は「死者の日」ですが、死んだ人たちも、実は生きています。祈りの中で、自分の心の奥深くに流れる愛の河のほとりに降り立ち、そのことを実感できるよう神さまに願いましょう。

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