バイブル・エッセイ(1230)目を覚ましている

目を覚ましている

 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(マタイ24:37-44)

 「主が帰ってこられる日は、あなたがたにはわからない」。だから、「目を覚ましていなさい」と、イエスが弟子たちに語りかける場面が読まれました。「主人から罰せられないように用心していなさい」という意味にもとれますが、それだけだと、自分を守ることだけを考え、いつもびくびくして生きることになってしまいかねません。イエスはいったい、どういう意味で「目を覚ましていなさい」と言ったのでしょう。
 「目を覚ましている」とは、自分が「神の子」であることを決して忘れず、「神の子」として生きているということ。神さまに愛されている「神の子」であることに誇りを持ち、互いに愛しあって生きることだとわたしは思っています。誰かが本来の自分を見失っているとき、その人らしいやさしさや思いやりを見失い、周りの人たちを傷つけているとき、わたしたちは「何をやっているんだ。目を覚ませ」とその人に言うことがあります。イエスが言う、「目を覚ます」というのも、まさにそのような意味なのです。イエスと出会ったとき、「何をやっているんだ。『神の子』としてのあなた、やさしくて思いやりのあるあなたはどこへ行ったんだ」とイエスに言わせないために、イエスを嘆き悲しませないために、「いつも目を覚ましていなさい」、「神の子」としての本当の自分を見失わないようにしなさい。それが、イエスの言いたかったことなのです。
 そのような意味にとらえるとき、「目を覚ましている」とは、幸せに生きることに他なりません。自分が神から愛された存在であることを決して忘れず、いつも喜びに満ちた心で生きる。自分と同じようにかけがえのない「神の子」である兄弟姉妹と、互いに愛し合い、助け合って生きる。それが、「目を覚ましている」ということなのです。
 イザヤ書には、主がやって来るとき、「民は剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」と書かれています。なぜ人々は、自分から進んで剣や槍を捨てるのでしょう。それは、「目を覚ます」からに他なりません。自分が「神の子」であることを思い出し、本当の意味での自分らしさ、やさしさや思いやり、他者へのいたわりを取り戻すとき、わたしたちは、もう、武器など必要がないことに気づくのです。
 教会の危機があちこちで語られてるいまこそ、「目を覚ます」べきときに他なりません。もはや、互いに競い合い、争い合っている場合ではないのです。いまこそ目を覚まし、互いに愛し合うべきとき、「神の子」としての本来の姿を取り戻し、互いの意見に耳を傾けながら、共に教会を作っていくべきときなのです。教皇フランシスコによって認可されたシノドス最終文書「シノドス流の教会」がわたしたちに語りかけているのも、まさにそのことに他なりません。わたしたちが「神の民」としての本来の姿を取り戻し、互いに愛しあって生きる共同体を作っていくことこそ、福音宣教の第一歩であり、それさえあれば、教会の未来について不安を感じる必要などまったくないのです。いまこそ、目を覚ますべきとき。そのことをしっかり心に刻み、「神の子」として互いに愛し合い、助け合う共同体を作っていくことができるよう心を合わせてお祈りしましょう。

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