
信じて待つ喜び
そのとき、ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」(マタイ11:2-12)
「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、貧しい人は福音を告げ知らされている」とイエスがヨハネの弟子たちに告げる場面が読まれました。イエスが告げた事実は、どれもイザヤ書で、救い主がきたときに実現することとして挙げられているものばかりです。いまここで起こっていること、それが、自分が誰であるかを語っている。言葉で付け加えることはない。それが、イエスの答えだったのです。
イザヤ書には、「恐れるな。神は来て、あなたたちを救われる」という言葉もあります。いまは不可能と思えることでも、救い主が来れば必ずできるようになる。すべての争いは止み、悲しみや痛みは取り去られ、和解と一致、平和が実現する。だから「恐れるな」というのです。神の救いは必ず実現する、そう固く信じるとき、わたしたちの心から恐れはなくなります。恐れどころか、むしろ、希望が生まれ、「この苦しみも、必ず取り去られるときがくるのだ。なんとうれしいことだろう」という喜びさえ湧き上がってくるのです。信じて待つとき、待つということ自体が喜びに変わる。そう言っていいでしょう。
それは、クリスマスにサンタクロースのプレゼントを待つ子どもたちの心に似ているかもしれません。わたしも子どもの頃そうでしたが、子どもたちはこの時期、クリスマスがやって来るのをわくわくした気持ちで待っています。「今年は、サンタさん、どんなプレゼントをくれるかな」と考えるだけで、心に喜びが湧き上がってくるのです。それは、クリスマスには必ずサンタさんがやって来て、プレゼントをくれると固く信じているからです。救い主の到来についても、同じことが言えるでしょう。「救い主は必ずやって来る」と、子どもたちのように素直な心で信じて待つなら、待つこと自体が喜びになるのです。
わたしたちが直面している困難は、ときに複雑に絡みあい、解決が不可能に見えることがあります。しかし、救い主が来れば、どんなに複雑に絡み合った人間関係のわだかまり。積み重なった誤解や、気持ちのすれ違いも、必ずときほぐされる。いまは憎み合っているあの人とも、いつか必ず、昔のように手を取り合い、助け合いながら生きられるようになる。そう信じるとき、わたしたちの心に喜びが湧き上がってきます。
わたしたちの心に、希望が生まれると言ってもよいでしょう。その希望はわたしたちの心を明るく照らし、わたしたちの心に眠った「神の子」としての本来の姿を目覚めさせ、兄弟姉妹と愛しあい、共に仲よく生きていく世界の実現に向かって私たちを導いてくれます。「大丈夫。まだきっと何とかなる」、その確信が、前に向かって進んでいく力になる。そう言ってもいいでしょう。
信じて待つとき、待つこと自体が喜びに変わります。大切なのは、子どものような心で信じること。救い主は必ず来るし、救い主にできないことなど何もないと確信することです。待降節の残りの期間を、信じて待つ喜びのうちに生きることができるよう、共にお祈りしましょう。
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