バイブル・エッセイ(1233)救いとは何か?


救いとは何か?

 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた。(マタイ1:18-24)

 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」というイザヤの言葉が読まれました。インマヌエルとは、「神は我々と共におられる」という意味です。一方で天使は「その子をイエスと名付けなさい」とヨセフに告げました。イエスとは、「神は救う」という意味です。この二つの名前を合わせて理解するなら、イエスは、「わたしたちと共にいることによって、わたしたちを救う神」だということになるでしょう。
 イエスの救いは、天国から人間を見下ろして、助けの手を差し伸べる救いではありませんでした。イエスの救いは、わたしたちと共にいることによる救いだったのです。イエスは、さまざまな困難や試練を取り去ることによって人を救う方ではありませんでした。イエスは、わたしたちと共に苦しみを担うことによってわたしたちを救う方だったのです。
 共に苦しむことが救いになるのかという疑問はあるでしょう。神なら苦しみを取り去ることによって救うことができるはずなのに、なぜ取り去らないのか。神なのに、共に苦しむことしかできないのか。そのように考える人がいるのも当然です。しかし、そもそも「苦しみを取り去る」とはどういうことでしょう。人間にとって、一番大きな苦しみ、取り去ってほしい苦しみは何なのでしょう。人間にとって一番大きな苦しみ、それは自分が誰からも相手にされないこと、自分を愛してくれる人が誰もいないことです。その苦しみをどうやったら取り去ることができるでしょう。その人を愛すること、それ以外に答えはないと思います。相手の苦しみを自分自身の苦しみとして担い、その人と共に苦しむ。その人のために、自分のすべてを差し出す。それほどまでに愛することによってのみ、わたしたちはその人を救うことが出来るのです。
 マザー・テレサが、道端で死にかけている人を見つけて施設に連れて帰り、懸命に看病していたときのことです。その人は初め、「わたしのことなんか放っておいてくれ」と言っていました。ところが、息を引き取る間際になってマザーにこう言ったそうです。「わたしはこれまで、道端で動物のように生きてきた。だが、いまはこうして愛され、天使のように死んでいくことができる。」これが、キリスト教の救いだと思います。死そのものを取り去ることは誰にもできません。しかし、その人のために自分を差し出すこと、その人の苦しみを共に担うことによって、死の苦しみを和らげることはできるのです。その人を愛することによって、その人の苦しみを取り去る。それが、キリスト教の救いなのです。
 このような救いは、わたしたちにも実践することができます。苦しんでいる人と共にいること、相手の苦しみを共に担うこと、相手を愛することによって、わたしたちはその人の苦しみを和らげることができるのです。その人の心に、救いをもたらすことができるのです。「我々と共におられる神」となったキリストにならって、わたしたちも苦しんでいる人々と共にいることができるように。そうすることで、人々に救いを告げることができるように祈りましょう。

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