バイブル・エッセイ(1234)人間として生まれた神

人間として生まれた神

 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2:1-14)

「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」、天使が羊飼いにそう告げる場面が読まれました。神が乳飲み子となってこの世界に生まれた。この出来事のどこに、それほどの喜びが隠れているのでしょう。
 神が人間として生まれたということは、神がわたしたちと同じ人間として、人間の味わう全ての苦しみ、空腹や寝不足などから始めて、孤独の痛みや別れの悲しみなど、すべての苦しみを味わってくださるということ。そして、最期には、同じ人間としてわたしたちと共に死んでくださるということに他なりません。神が人間として生まれるということは、神が、死に至るまでの人間のすべての苦しみを共に味わってくださるということ。どんなに苦しいときにも、神がわたしたちと共にいてくださるということなのです。
 ここにキリスト教の救いの大きな特徴があります。人間に食べ物を与えたり、病気を治したり、支配者から解放したりするような救いなら、神が人間になる必要はないでしょう。天国からでも十分に出来たはずで、現に旧約聖書にはそのような話がたくさんあります。ではなぜ、神は人間となる必要があったのでしょう。なぜイエスは、乳飲み子として生まれる必要があったのでしょう。それは、同じ人間として、人間を愛するために他なりません。同じ人間として、人間と同じ苦しみや悲しみを味わいながら人間を愛する。苦しんでいる人たちの手を握りしめ、涙を流してその人の苦しみを共に分かち合う。そのために、人間になる必要があったのです。苦しみの中にあるとき、いつもそばにいてわたしたちを支える救い主となるために、神は人となったのです。
 人間がこのような救いを最も必要とするのは、死ぬときだと言ってよいでしょう。家族から離れ、病院や高齢者施設で一人死を迎えようとしている。そんなときでも、イエスはわたしたちと一緒にいてくださいます。わたしたちにしっかり寄り添い、わたしたちの苦しみを共に担ってくださるのです。そして、「わたしもあなたと一緒に死ぬ。何も心配する必要はない」とやさしく声をかけてくださるのです。どんな状況であったとしても、わたしたちが一人ぼっちで死ぬということはありえません。イエスが一緒に死んでくださるからです。わたしたちと同じように生まれ、わたしたちと同じように死んでいく神。それがイエス・キリストなのです。イエス・キリストは、わたしたちと共に苦しみ、共に死ぬためにこそこの世界に生まれた。そう言ってよいでしょう。
 キリストと共に死に、キリストと共に天国に行く。それが死ぬということなら、死を恐れる必要などまったくありません。イエス・キリストがこの世界に生まれたのは、人間を死の恐怖から解放するためだったのです。そのように理解するとき、「闇の中を歩む民は大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に光が輝いた」というイザヤ書の言葉は、より深くわたしたちの心に響くでしょう。神がこの世界に生まれた、人間と共に生き、共に死んでくださる神となってくださった。この恵みに心から感謝しながら、この聖なる夜を共に祝いましょう。

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