
誇るもののない人
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」(マタイ5:1-12)
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」とイエスは言います。「心の貧しい人」とはどんな人のことでしょう。神は世に恥をかかせるため、「無学な者」「無力な者」「無に等しい者」をイエスの弟子に選んだというパウロの言葉が、それを考えるための手掛かりになるでしょう。「心の貧しい人」とは、この世が誇りにするものを何も持っていない人、神以外に誇るもがない人のことなのです。
誇るものをたくさん持っている人が陥りやすい一つの間違いは、それを持っていない人を見下すことです。たとえば、自分は人とつきあうのがうまいと思って自分を誇る人は、自分のようにうまく立ち回れない人を見たとき、「なんだ、こんなこともできないのか。ダメな奴だ」と相手を見下すことがあります。しかし、それでは「天の国」に入ることができません。なぜなら、その人の心には、愛がまったくないからです。
誇るもののない人、自分は確かにうまく立ち回っているが、それは神さまから与えられた力によるもの。自分には誇るものなど何もないと分かっている人は、決して人を見下しません。それどころか、自分に与えられた力を、それを与えられていない人のためにどう役立てるかを考えます。さらに、相手の中に自分にはない優れた力を見つけ出し、相手を尊敬しさえするのです。そのような人は「天の国」に近いと言ってよいでしょう。なぜなら、相手を尊敬し、相手のために喜んで自分を差し出す人の心には、確かに愛があるからです。
誇るものをたくさん持っている人は、物事が自分の思った通りにならないとき、世の中に対して腹を立てることもあります。自分は特別な人間なのだから、自分以外の人間は自分の思った通りに動くべきだと考えてしまいがちだからです。そのような自分中心の考え方では、「天の国」に入ることはできません。怒りや憎しみは、「天の国」への道を閉ざしてしまうのです。
誇るもののない人、自分には特別な力が与えられているが、それはこの地上に「天の国」を作るために神さまから与えられたもの。自分は神のしもべにすぎないと分かってる人は、世の中に対して腹を立てることがありません。むしろ、世の中が自分に求める役割を神さまが自分に与えた役割として受け止め、自分のすべてを世の中のために差し出そうとします。そのような人は「天の国」に近いと言ってよいでしょう。なぜなら、世の中を自分の思った通りにすることより、世の中のため、神さまのために自分に何ができるかを先に考える人の心には、確かに愛があるからです。
誰かを見下す心、世の中に対する怒りや憎しみに燃えた心では、「天の国」に入ることができません。そのような心が生まれるたびに、「こんなに思い上っている自分は何者なのか。自分のどこに誇るものがあるのか」と自分に問いたいと思います。わたしたちに誇るものがあるとすれば、わたしたちにすべてのものを与え、わたしたちを生かしていてくださる神さまだけなのです。神さま以外に誇るものをもたいな者、「心の貧しい者」として、いつも神さまの愛にとどまることができるよう共に祈りましょう。
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