バイブル・エッセイ(1245)喜びに輝く顔

喜びに輝く顔

 イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。(マタイ17:1-9)

「イエスの顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」と福音書は記しています。「太陽のように輝く顔」と聞いて、皆さんはどんな顔を想像するでしょう。わたしが想像するのは、喜びにあふれた笑顔です。山の上で弟子たちと共に祈る中で、イエスは、自分のすべてを神の手に委ねました。そのとき、イエスの心を聖霊が隅々まで満たし、全身から喜びがあふれ出したのです。その喜びこそ、イエスの「太陽のように輝く顔」、「光のようにまっ白な服」という言葉が表しているものなのだとわたしは思っています。
 教皇フランシスコによって示された「共に歩む教会」、「シノドスの教会」を目指す歩みの中で、「霊による会話」がよく行われます。決められた時間の中で共に祈り、祈りの中で与えられた聖霊の恵みを分ち合う。分かち合いを通して、神さまがいま、わたしたちに何を望んでおられるのかを識別する。それが「霊による会話」です。先日、行われた広島教区のシノドス、「宣教ひろば」の中でも「霊による会話」が行われました。
 7-8人のグループをいくつか作り、それぞれ「霊による会話」を行うのですが、わたしもその中の一つに参加させてもらいました。そのとき気づいたのは、祈りの時間を終えて話し始めるとき、皆さんの顔がとてもうれしそうだったことです。聖霊の喜びに満たされた顔だったと言ってもよいでしょう。そのような顔から話される言葉は、どれも力強く、心に深くしみ込むものばかりでした。「今まさに聖霊がここで働き、わたしたちを力強く導いている」、「霊による会話」に参加しながら、わたしはそう思わずにいられませんでした。
 祈りの中ですべてを神の手に委ね、ひたすら聖書の言葉、神の言葉に耳を傾けるとき、わたしたちの心は喜びで満たされます。すべてを委ねて空っぽになった心を、聖霊が隅々まで満たすからです。一人でもそれは起こりますが、「二人または三人が集まって祈るとき、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)とイエスも言っている通り、集まって祈ることでより祈りが深まり、より豊かな恵みが与えられることが多いのもの事実です。集まって心を一つにし、神の手にすべてを委ねて祈るとき、他のすべてを脇に置いて、ただ聖書の言葉に耳を傾けるとき、わたしたちの心は聖霊の喜びに満たされ、わたしたちの顔は「太陽のように輝く」のです。
 集まって共に捧げる祈りの頂点にあるのが、ミサだと言ってよいでしょう。ミサで共に祈るとき、わたしたちの心は喜びで満たされ、顔は「太陽のように輝き」始めます。その顔こそ、いまここに聖霊が働いていること、わたしたちがキリストと出会い、救われたことの何よりの証拠です。教会から出てきた人たちの顔がどれも輝いているのを見るとき、街の人たちはきっと、「あの場所で、何が起こっているのだろう」と思い始めるに違いありません。中には、教会に来てみたいと思う人もいるでしょう。それこそ、何よりの宣教なのです。共に祈り、聖霊に満たされること。あふれだす聖霊の喜びを、出会うすべての人々と分かち合うこと、それこそが何よりの宣教なのです。イエスの御変容の恵みによって、わたしたちが喜びにあふれた宣教者の姿に変えられていくよう、共に祈りましょう。

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