バイブル・エッセイ(1251)原点に立ち返る

原点に立ち返る

 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」(マタイ28:1-10)

「わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」、復活したイエスがマリアにそう告げる場面が読まれました。ガリラヤとは、イエスと弟子たちの故郷、イエスと弟子たちが初めて出会った場所に他なりません。「初めて出会ったその場所から、再びすべてを始めよう」、イエスは弟子たちにそう呼びかけているのです。
「ガリラヤ」は、わたしたちとイエスとの出会いを象徴する言葉だと考えてよいでしょう。イエスは弟子であるわたしたちに、「初めの出会いに立ち返れ、イエスと出会って救われた、あのときの喜びを思い出せ」と呼びかけているのです。その言葉に従うなら、わたしたちは再びキリストの命に満たされ、キリストと共にすべてを始めることができるでしょう。
 今年の「年の黙想」の中で、わたしも、自分の信仰の原点に立ち返り、救いの喜びを新たにする体験をしました。わたし自身にとっての信仰の原点、救いの体験とは、自分が生きていくための道、イエズス会での修道生活の道が示されたことでした。父の死をきっかけに、「自分はどうやって生きていったらいいのか」ということを考え始め、道を見失って途方に暮れていた当時のわたしにとって、マザー・テレサを通して、また聖霊の確かな導きによって、神父として、イエズス会員として生きる道が示されたことこそが、まさに救いの体験だったのです。
 それは、言い換えれば、自分の幸せがどこにあるのかが示された体験でした。「神のより大いなる栄光」のみを目指し、いつも神の愛と結ばれて生きる。それこそが自分の幸せ、救いなのだと気づいたとき、その幸せに向かって進む確かな道として修道生活の道が示されたのです。それは、逆に言えば、「神のより大いなる栄光」以外のもの、自分自身の私利私欲を求めて生きるなら、決して幸せにはなれないという気づき。財産や名誉、権力などを求めて生きるなら、怒りや憎しみ、苛立ち、不安などに満たされた滅びへの道を歩むことになるという気づきでもありました。その気づきがあまりにもはっきりしていたので、修道生活の道がより一層輝きをもって目の前に現れたと言ってもいいかもしれません。
 今年の「年の黙想」の中で、わたしはもう一度、自分に示された救いへの道を確認しました。自分の栄光を求めず、ただ「神のより大いなる栄光」を目指して生きることこそが幸せへの道であり、それを目指して生きることによってのみ自分の人生は価値のあるものになる。そのことを確認したのです。
 わたし自身の体験を分かち合いましたが、皆さんにもきっと、同じような体験、イエスによって道を示され、救われた体験があるはずです。その原点、わたしたちの「ガリラヤ」に帰るなら、わたしたちは再びそこでイエスと出会い、新しい命に満たされるのです。この復活祭に、再びイエスの弟子として新しい命に生まれ変わることができるよう、心を合わせて祈りましょう。

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