バイブル・エッセイ(1263)死ぬことによって生きる

死ぬことによって生きる

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイ10:37-42)

「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」という、イエスの言葉が読まれました。「命を失うことによって、命を得る」というのは、ちょっと矛盾しているようにも思えます。命を失えば死んでしまいいますが、逆に、死ぬことによって生きるというのです。イエスはいったい、何を言いたかったのでしょう。
 ここでイエスが言っているのは、わたしたちの体の死のことよりも、むしろ、わたしたちが神さまの愛のために、自分のすべてを差し出すこと。これまでの自分のやり方や思いを手放し、神さまの手にすべてを委ねることだと思います。古い自分を捨てて、神さまの愛に生きる。それが、イエスのために「命を失う」ということなのです。古い自分を捨ててることによって、愛と喜びに満たされた「神の子」の人生に入っていく。それが、イエスの言う「命を得る」ということなのです。
 これは、わたしたちが日々の生活の中で体験することだと言ってよいでしょう。たとえば、誰かから嫌なことを言われたり、されたりしたとき、わたしたちはすぐその人に腹を立てます。そして、心の中で「どうやって仕返ししてやろうか」などと考え、相手への憎しみをふくらませていくのです。それは、ある意味で自然な流れですが、憎しみを心に抱えながら生きていくことは、果して幸せなことでしょうか。誰かに憎しみを抱くことによって、せっかくの毎日が暗くて、重苦しいものになってしまうなら、それは、「自分の命を得ようとして、命を失う」ということに他なりません。
 怒りや憎しみが心に入り込んだときこそ、古い自分を捨てるとき、古い自分に死ぬときです。「あの人も、神さまの大切な子どもです。復讐することよりも、和解することを。滅ぼすことよりも、共に生きることを考えられますように」と祈り、怒りや憎しみを神さまの手に委ねるとき、わたしたちの心は大きな喜びで満たされます。すべてを神さまの手に委ねて、いったん死んだわたしたちの心に、復活の命の喜びが広がっていくのです。それが、イエスのために「命を失う者は、かえってそれを得る」ということに他なりません。古い自分を手放すことによってこそ、わたしたちは、神さまからいただいたこの大切な地上での日々を、喜びに満たされて生きることができるのです。「神の子」として、互いに愛し合いながら生きることができるのです。
 パウロはこのことを、「キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなる」(ロマ6:8)と表現しています。キリストが十字架上で自分のすべてを神さまの手に委ねることで、復活の命に与ったように、わたしたちも、古い自分を手放すことによって、キリストと共に永遠の命、永遠の喜びを生きられるのです。イエスのために命を失う勇気、「キリストと共に死ぬ」勇気を持てるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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