バイブル・エッセイ(1264)柔和で謙遜な者

柔和で謙遜な者

 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:25-30)

「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」とイエスが人々に語りかける場面が読まれました。イエスに学び、イエスと共に柔和で謙遜な生き方をするなら、「あなたがたは安らぎを得られる」と言うのです。イエスが与えてくださる、その安らぎとはいったいどんなものなのでしょう。
 旧約のゼカリア書には、救い主がやって来るときには「高ぶることなく、ロバに乗って来る」と記されています。平和をもたらす救い主は、力によって相手をねじふせる軍馬ではなくて、小さくて無力なロバに乗ってやって来るというのです。実際、イエスはエルサレムに入場するとき、ロバに乗っていました。イエスがもたらす救いは、力による救いではなく、神さまのまえにへりくだり、神さまのみ旨のままに生きることによってもたらされる救いであることが、この場面からよく分かります。
 わたしたちは日々の生活の中で「重荷を背負い、疲れて」いますが、それらの重荷、疲れの一部は、人と争うことから生まれるものだと言ってよいでしょう。さまざまな人間関係のトラブルを背負い込み、そのために心をすり減らすことで、わたしたちは疲れているのです。なぜ、わたしたちは争うのでしょう。人間同士の争いの根底にあるのは、自分の力で、相手を自分の思った通りにしたいという欲望だと思います。思った通りにならない相手を従わせるために、相手を暴力で、あるいは言葉で攻撃する。思った通りにならない相手を滅ぼすために、相手を罠にはめ、足を引っ張る。そのようなことをお互いに繰り返してるうちに、わたしたちは、すっかり疲れ果ててしまうのです。
 そんなわたしたちに、イエスは、「柔和で謙遜」な生き方を学ぶようにと教えます。財産や名誉、権力などを手に入れ、その力によって相手を従わせる生き方は、人間を幸せにしない。自分の弱さをあるがままに受け入れ、弱い一人の人間として、相手と共に生きる道を選ぶことによってのみ、人間は幸せになれる。心の底からの安らぎを得る。イエスはわたしたちに、そう教えているのです。
 教皇レオ14世は、昨年9月のアンジェラスの祈りで、「わたしたちは、神の前に自分を誇ったり、欠点を隠したりすることではなく、正直に、ありのままの自分を差し出すことによって救われるのです」と人々に語りかけました。自分を飾るのをやめ、「自分を大きく見せることには、もう疲れました。神さま、どうか弱くて小さなこのわたしをあわれんでください」と祈るときにこそ、わたしたちの心は安らぎで満たされ、救われるというのです。
「こんなに弱くて小さなわたしでさえ、神さまは受け入れ、愛してくださる」、そのことに気づいて感謝の涙を流すとき、わたしたちの心は「柔和と謙遜」に満たされます。そして、同じように弱くて小さな兄弟姉妹を、愛さずにはいられなくなるのです。「柔和と謙遜」を身に着けるとき、和解と平和、安らぎへの道が開かれるとイエスは教えています。自分を大きく見せようとし、互いに競いあう道を捨て、「柔和と謙遜」の道を選ぶことができるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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