バイブル・エッセイ(1270)神の前にひれ伏す

神の前にひれ伏す

 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。(マタイ15:21-28)

 娘を助けてもらいたい一心ですがりついた女性に、イエスが「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と答える場面が読まれました。全人類の救い主のはずのイエスが、なぜこのようなことを言ったのか、これは聖書の中の最大の謎の一つで、実際のところよくわかりません。一つだけはっきり言えるのは、この女性の態度、この女性の信仰が、イエスの心を動かしたということです。
 この女性は、イエスにすがりついたとき、いったいどんな気持ちだったのでしょう。この女性は異教徒ですから、初めからイエスに頼ったわけではないでしょう。初めは自分たちの神に祈り、助けを求めた。しかし、それでも娘が治らず、苦しみ続けているので、わらにもすがるつもりでイエスに頼った。娘を助けてくれるなら、もうどんな神さまでもいい。この女性は、きっとそんな気持ちだったのだろうと思います。最愛の娘が、このままでは死んでしまう。もうなりふりかまっていられない。そのような気持で、この女性はイエスにすがりついたのです。
 この女性の気持ちは、とても同情できるものだと思います。娘を思う母の愛に、心を打たれるからです。しかし、イエスは、すぐにこの女性の願いを聞き入れませんでした。娘の命を救ってほしいという気持ちはわかるが、単にご利益を求めているだけなら、その願いを聞き入れるのは難しい。もしかするとイエスは、そう思ったかもしれません。イエスが起こしたこれまでの奇跡が、すべて信仰による奇跡だったことを思い出す必要があるでしょう。相手の心に、神さまの愛を信じ、神さまの愛の前にひれ伏す信仰がなければ、奇跡を起こすことは難しかったのです。
 イエスが、自分はイスラエルの民のために遣わされたものだ。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言ったのは、この女性の心に、本当に信仰があるかどうかを確かめるためだったのではないかと、わたしは思います。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」というこの女性の答えは、イエスの期待に応えるものでした。この女性の心には、確かに、神さまの愛を信じ、神さまに自分のすべてを委ねる信仰、神さまの前にひれふす信仰があったのです。「こんな取るに足りない母親ですが、ほんのわずかでも恵みを頂けるなら、もうそれで十分です」というこの女性の謙虚な態度に、イエスは、まぎれもない信仰。神さまへの愛を見たのです。
 わたしたちは、御聖体を頂く前に、「主よ、わたしはあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。おことばをいただくだけで救われます」と唱えます。この言葉は、わたしたちの信仰を表すものだと言ってよいでしょう。自分の弱さや罪深さを知り、それでも、神さまの愛を信じて自分を神さまの手に委ねる、その信仰があってこそ、わたしたちは命のパンである御聖体を頂くことができるのです。この祈りに「祭壇から落ちるパン屑でもかまいません」と加えるなら、わたしたちの信仰は、カナンの女性のようになるでしょう。カナンの女性から、神の前にひれ伏す信仰を学ぶことができるようお祈りしましょう。

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こころの道しるべ(333)それぞれ素晴らしい

それぞれ素晴らしい

「多様性を認める」とは、
相手の生き方を、
我慢して受け入れる
ということではありません。
自分の生き方も、相手の生き方も
それぞれ素晴らしいと気づき、
互いに学びあいながら成長してゆく。
それが、「多様性を認める」
ということなのです。 

『悲しみの向こう~希望の扉を開く言葉366』(教文館刊)

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こころの道しるべ(332)生活のリズム

生活のリズム

体調が悪いときに、いつもの
生活のリズムを守ろうとすれば、
体を壊してしまうでしょう。
体調が悪いときには、
体調が悪いとき用の
生活のリズムに切り替えること。
自分の限界を素直に認め、
いまの自分に
できることで満足しましょう。

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バイブル・エッセイ(1269)水の上を歩く

水の上を歩く

 イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。(マタイ14:22-33)

「ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけた」と福音書は記しています。イエスの言葉に耳を傾け、イエスを見て進んでいる限り、ペトロは沈まなかった。しかし、強い風に気づき、イエスから目をそらすと、たちまち沈み始めたということでしょう。イエスを目指して歩んでいる限り、決して沈まない。しかし、イエスから目をそらし、自分の身の安全を考え始めると沈み始める。これは、とても考えさせられることだと思います。
 わたしにとっては、イエズス会で神父になることが、まるで水の上を歩くようなものでした。清貧、貞潔、従順を生涯にわたって守り通し、修道生活を生き抜くということが、わたしにとっては、まったく不可能なことに思えたのです。しかし、祈りの中で自分なりにしっかりとイエスの声に耳を傾け、思い切って一歩を踏み出すと、不思議なことに、なんとか浮かぶことができました。
 しかし、歩き始めても、ときどき不安になることがありました。何か失敗をしたときなどに、「こんな自分に、修道生活を続けられるのだろうか」と思って、暗い気持ちになることがあったのです。そのように考え始めると、不安はどんどん大きくなっていきます。「いま30歳だから、85歳まで生きるとして、まだ55年もある。これはもう無理だ」などと、先のことまで心配して、どんどん追いつめられていくのです。
 これは、イエスを見失った状態だと言っていいでしょう。「わたしについて来なさい」と呼びかけるイエスの声を無視して、自分のことばかり見始めるとき、わたしたちは沈み始めるのです。いよいよ沈み始めたとき、わたしはいつも、「主よ、お助けください」と祈りました。いよいよという時になると、またイエスの方を向き、イエスに助けを求めたのです。そのたびごとに、イエスは助けの手を差し伸べてくださいました。そのおかげで、わたしはいまも、修道司祭を続けていられるのです。
 大切なのは、イエスを見失わないことだと思います。自分のことばかり見れば、弱さや欠点が目について、絶望的になっていくのは自然なことです。しかし、そんなわたしにでさえ、イエスは呼びかけてくださる。水の上を歩く力を与えてくださると信じ、イエスの愛に身を委ねるなら、わたしたちはどこまでも歩き続けることができます。イエスの愛こそ、弱い人間に過ぎないわたしたちが、あらゆる困難を乗り越えていくための力なのです。
 イエスは、貧しい人たち、社会の片隅に追いやられた人たちの中にもおられます。貧しい人たち、苦しんでいる人たちの姿を見るとき、「何かせずにはいられない。こんなわたしでも、何かできることができるかもしれない」という気持ちが湧き上がってくるのは、貧しい人たちの中からイエスが呼びかけているからなのです。貧しい人たちを見、呼びかけるイエスの声を聞くとき、困難に立ち向かう力が、わたしたちに与えられるのです。いつもイエスを見、イエスの声に耳を傾けながら、水の上を歩き続けることができるよう祈りましょう。 

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こころの道しるべ(331)貸しも借りもない

貸しも借りもない

誰かに助けてもらっても、
「借りができた」
と考える必要はありません。
その人はきっと、
人間として当然のことをしたとしか
思っていないし、
何の見返りも求めていないからです。
感謝して、自分も同じように
人を助けることができますように。

『悲しみの向こう~希望の扉を開く言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(1268)できることはある

できることはある

 イエスは(洗礼者ヨハネが死んだこと)を聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。(マタイ14:13-21)

 「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」というイエスに、「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」と弟子たちが答える場面が読まれました。イエスは、弟子たちに「それをここに持って来なさい」と言います。「それだけあれば十分だ」ということでしょう。実際、イエスが五つのパンと二匹の魚の恵みを神に感謝し、それを裂いて人々に分かち合うと、五千人以上の人々が「食べて満腹した」のです。
 弟子たちは「これしかない」と言ったものを、イエスは、「それで十分」と考え、神さまに感謝して人々と分かちあいました。ここに、わたしたちが学ぶべき点があると思います。わたしたちはつい、弟子たちと同じように、「これしかない」という考え方をしてしまいがちだからです。
 たとえば、「うちの教会には高齢者しかいないから、いまさら地域に向けた宣教などできない」という声を聞くことがときどきあります。しかし、本当にそうでしょうか。逆に、「高齢者だからこそできることがある」という考え方もありうると思います。実際、高齢者だからこそできる宣教の実践が、あちこちの教会から聞こえ始めているのです。
 たとえば、ある教会では、90歳を過ぎた高齢の神父さんが始めた聖書講座が、思わぬ広がりを見せたといいます。神父さんはご高齢なので、聖書の話をするといってもあまり長い時間は話せません。神父さんの話が終わった後は、参加者がそれぞれに自分の体験や悩み事などをたっぷり分かち合うことができるのです。平日の午前中に行われているので、集まっている方々もほとんどが高齢者なのですが、この長い時間の分かち合いが、「うちにじっとしていてもつまらない。誰かと会って話したい」という高齢者たちの求めにぴったりと合ったようで、毎回、何十人もの方が集まってきます。信者でない方たちも参加するようになり、最近では、講座のあとも一緒にお弁当を食べながらゆっくり過ごしているとのこと。これはもう、ある意味で、霊的な「デイケア」と言ってよいでしょう。高齢者だからこそ、高齢者の求めにぴったりと合った宣教ができるということを、立派に証明してくれる実践だと思います。
 他の教会では、神父がもう住んでいないけれど、高齢の信徒たちはよく教会に集まるということで、信徒の中でケアマネージャーの資格を持っている方が、高齢者のための「デイケア」を始めました。ご近所に住む、信徒でない方も参加し、とても喜んでくださっているそうです。「信徒は高齢者ばかり。神父もいなくなった。これではもう何もできない」と考えることもできたのに、「いや、このような教会だからこそできることがある」と考えたところがとてもすばらしいと思います。
 まず必要なのは、神さまが与えてくださったものに感謝することでしょう。「高齢者しかいない」のではなく、「高齢者がいる」ことに感謝して祈るとき、まだできることが見えてきます。これまで思いつかなかったような、新しい宣教の仕方が見つかるのです。身の回りにいる孤独な人たち、愛に飢えている人たちのために、わたしたちには、まだできることがあります。感謝して分ち合うことで、多くの人々の飢えを満たすことができるよう、心を合わせて祈りましょう。

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こころの道しるべ(330)状況は変わる

状況は変わる

「こんな状況ではもうだめだ」
と思うのは、この状況が
いつまでも続くと思い込んでいるから。
いつまでも変わらない状況など
存在しません。どんな最悪の状況も、
いつか必ず変化する。
いつか必ず道が開かれる。
そこに、わたしたちの希望があります。

『悲しみの向こう~希望の扉を開く言葉366』(教文館刊)

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