バイブル・エッセイ(1134)十字架と復活の神秘

十字架と復活の神秘

 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。(ヨハネ12:20-33)

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」というイエスの言葉が読まれました。ご自身が十字架上で死ぬことによって、全人類に復活の希望がもたらされることを、一粒の麦の死にたとえて弟子たちに教えた言葉で、十字架と復活の神秘の最もわかりやすい説明といってよいでしょう。
 十字架と復活の神秘は、わたしたちの日々の生活の中でも起こります。イエスが十字架で自分の命を差し出すことによって永遠の命に移されたのと同じように、わたしたちも、自分に与えられた使命の十字架を日々担い、自分に死ぬことによって、永遠の命の喜び、永遠の命の力に満たされて生きることができるのです。自分のことばかり考えるのを止め、家族や友人たちのため、助けを求めている人、苦しんでいる人のために自分を差し出すときにこそ、わたしたちは日々を生き生きと、幸せに生きることができるのです。
 東日本大震災のときに、こんな話を聞きました。海辺の町で理髪店を営んでいたのだけれど、津波によって店も、また奥さんや子どもたちも流されてしまったという方の話です。避難所にたどり着いたあと、その方はしばらく、悲しみのあまり起き上がることができなかったそうです。「なぜ自分にこんなことが起こるんだ。なぜ自分がこんな目にあわなければならないんだ」と絶望的な気持で日々を過ごしていたのですが、1カ月あまりが過ぎたあるとき、避難所の人たちの髪の毛が伸び放題になっていること気づきました。かろうじて店から持ち出したハサミで避難所の人たちの髪を刈るボランティアを始めたところ大好評になり、いつの間にか辛い気持ちから這い出すことができた。「みんなのために働かせてもらうことで、生きる力を与えられた」とその方が語っておられたのが印象的でした。この方は、自分のことを忘れ、人々のために自分を差し出すことによって生きる力を与えられたといってよいでしょう。
 このようなことは、わたしたちの日常生活の中でも多かれ少なかれ起こります。わたし自身もときどき、「なぜ自分にこんなことが起こるんだ。なぜ自分がこんな目にあわなければならないんだ」という考えに陥ってしまうことがあります。そんなときわたしは、自分のことを考えるのを止め、いま自分が果たすべき使命を思い出すようにしています。そして、気を取り直し、信者さんたちに配る印刷物を作るとか、どんな小さなことでもいいので、いま自分がみんなのためにできることを始めるのです。すると不思議なことに、気持ちが少しずつ晴れていきます。生きる喜び、生きる力が少しずつ蘇ってくるのです。
 「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」ともイエスはいいます。「自分さえよければいい」とか「なぜ自分が」といったような自分中心の考えに陥ると、わたしたちは生きる喜びや力を失ってしまう。そのような考え方を捨て、自分をみんなのために差し出すことでわたしたちは永遠の命の喜び、永遠の命の力に与ることができるということでしょう。この十字架と復活の神秘を改めて心にしっかりと刻み、日々の生活の中で生きられるよう祈りましょう。

youtu.be

※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞお役立てください。

 

幸せの道しるべ(209)幸せの感受性

幸せの感受性

家族や仲間の思いやりに
気づいて感謝する心があれば、
道端に咲く花や木々の美しさに
気づいて感動する心があれば、
わたしたちはいつでも幸せになれます。
幸せは、手に入れるものではなく、
むしろ感じとるもの。
「幸せの感受性」を磨きましょう。

『やさしさの贈り物~日々に寄り添う言葉366』(教文館刊)

※このカードはこちらからJPEGでダウンロードできます⇒

A3 道しるべ209「幸せの感受性」A3.JPG - Google ドライブ

ハガキ 道しるべ209「幸せの感受性」ハガキ.JPG - Google ドライブ

バイブル・エッセイ(1133)愛を証しする

愛を証しする

「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」(ヨハネ3:14-21)

 モーセがニコデモに、「人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」と語る場面が読まれました。自分が十字架につけられるのは、人々に神の愛を信じさせるため。信じて永遠の命を得させるためには、自分が命を捧げ、十字架につけられる必要があると、イエスは考えていたのです。
 なぜイエスは、そのように考えたのでしょう。そもそも、イエスはなぜ十字架につけられたのでしょうか。それは、イエスが神の愛を説いたからに他なりません。神の愛は無償であって、高価ないけにえを捧げなければ神からゆるされないという考え方は間違っている。職業や身分、財産などに関係なく、すべての人がかけがえのない神の子であり、すべての命は神の前に限りなく尊い。そのことを言葉と行いによって人々に教えたために、イエスは律法学者やファリサイ派の人々の怒りを買い、ローマ兵たちに引き渡されることになったのです。十字架につけられても、イエスは決してその教えを曲げることがありませんでした。あらゆる侮辱や痛みに耐え、神の愛の教えを最後まで守り抜いたのです。わたしたちは、誰もがかけがえのない神の子であることを命がけで証ししたのです。
 神の愛は、十字架によって証しされるということは、すべての時代に当てはまる真実だと思います。十字架というのは、神さまからわたしたち一人ひとりに与えられた、誰かを愛する使命のことだといってもよいでしょう。たとえば、お父さんやお母さんには、自分の子どもたちを愛し、守り育てるという尊い使命が与えられています。その使命を果たすために日々、懸命に働くことによって、ときにはいわれのない侮辱にさえ耐えることによって、お父さんお母さんたちは自分に与えられた十字架を日々、背負いながら生きていくのです。子どもへの愛のために、自分を十字架に捧げているといってもよいでしょう。その姿を見るとき、子どもたちは、親の愛を確信するに違いありません。神の愛、神によって人間に与えられた無私の愛は、十字架によってこそ証しされるのです。
 人それぞれに十字架は違いますが、すべての人に誰かを愛する使命、神の愛を証しする使命が与えられていることは間違いありません。わたし自身であれば、たとえどんなに疲れても、多少の嫌なことがあったとしても、司祭として皆さんに奉仕すること、その使命を果たすことで自分を十字架につけ、神の愛を証しすることが使命だといってよいでしょう。学校や幼稚園で子どもたちのために自分を捧げる人、老人ホームなどで高齢者のために自分を捧げる人、医療機関で病気の人たちのために自分を捧げる人、それぞれに十字架は違いますが、誰もが神の無償の愛を証しているのです。共にそれぞれの十字架を担い、神の愛を証しし続けることができるよう祈りましょう。

youtu.be

※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞお役立てください。

 

 

こころの道しるべ(208)命の答え

命の答え

自分の力で生きているのではなく、
命の力によって
生かされているわたしたち。
「何のために生きているのか」
と自分に問いかけ、
答えが見つからないときは、
「何のために生かされているのか」
と命に問いかけましょう。
命には、必ず答えがあります。

『やさしさの贈り物~日々に寄り添う言葉366』(教文館刊)

※このカードはこちらからJPEGでダウンロードできます⇒

A3 道しるべ208「命の答え」A3.JPG - Google ドライブ

ハガキ 道しるべ208「命の答え」ハガキ.JPG - Google ドライブ

バイブル・エッセイ(1132)本当のいけにえ

本当のいけにえ

 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。(ヨハネ2:13-25)

「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し」たとヨハネ福音書は記しています。イエスの激しい怒りが感じられる場面です。「神からゆるされるためには羊や牛を捧げなければならない」と勝手に決め、人々の信仰を利用して金儲けをしている人たちを、放っておくことができなかった。神殿のありさまを見たイエスの悲しみは、それほどまでに深かったということでしょう。
 いけにえの動物を売るということは、形式的にいけにえさえ捧げておけばいいのだという勘違いや、自分はいけにえを捧げているから、捧げられない連中より偉いのだという思い上がりを生み、いけにえを捧げる人たちを神から遠ざけます。そればかりでなく、いけにえの動物を捧げられない人たちの心に、自分はいけにえを捧げられないから神にゆるされない。いけにえを捧げられる人たちより劣った人間だという思い込みを生み、いえにえを捧げられない人たちを神から遠ざけます。いけにえの動物を売るという行為は、いけにえを捧げる人も、捧げられない人も神から遠ざけ、誰も幸せにしない行為だとイエスは見抜いていました。だからこそ、ひどく悲しみ、激しい怒りを表したのだと思います。
 いけにえなど捧げなくても、神はすべての人をゆるしてくださる。悔い改めて立ち返る人、自分の間違いに気づいて神の愛に戻ってくる人を、神は誰一人拒むことがない。イエスが伝えた福音とは、そのようなものでした。詩編51に「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」とあるように、神のもとに帰るときに唯一必要ないけにえは、自分の間違いに気づいて悔い改める心、自分の弱さに気づいてプライドを打ち砕かれ、神に助けを求める謙虚な心なのです。
 現代の教会には、いけにえの動物はいませんが、教会の維持費や献金を納める制度はあります。それは、施設としての教会を維持し、教会として活動していくために必要なことなのですが、ときどき勘違いして、「わたしはお金を納めていないから、教会に行くことができない」と思ってしまう人がいます。年金暮らしの中で教会にこれまで通りお金が納められなくなったから、教会から足が遠のくというようなことがあるなら、それはまったく残念なことです。むしろ、高齢になって自分の限界や弱さを知り、謙虚になった人たちの心、ただ神にのみ助けを見出し、神に希望を置いて生きる人たちの心こそ、最も尊いいけにえであり、捧げものなのです。教会での奉仕についても同じことがいえます。奉仕するのは尊いことですが、奉仕できないからといって神から離れる必要はまったくないのです。もう力がないというなら、その無力さを神にお捧げしましょう。それこそ、神が最も喜ばれるいけにえなのです。
 神殿から動物や両替商を追い出したとき、イエスの心に燃えていたのは、なんとかして一人でも多くの人を救いたい。すべての人に、「あなたはかけがえのない神の子だ」と伝えたいという熱い思いでした。その愛をしっかり受け止め、神のもとに立ち返ることができるように祈りましょう。

youtu.be

※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞお役立てください。

 

こころの道しるべ(207)自由になる

自由になる

人をゆるすとは、
怒りと憎しみの闇から
解放されるということ。
自分をゆるすとは、
絶望といら立ちの闇から
解放されるということ。
人をゆるし、自分をゆるすことで、
愛の光に包まれた、
本当の自由に到達できますように。

『やさしさの贈り物~日々に寄り添う言葉366』(教文館刊)

※このカードはこちらからJPEGでダウンロードできます⇒

A3 道しるべ207「自由になる」A3.JPG - Google ドライブ

ハガキ 道しるべ207「自由になる」ハガキ.JPG - Google ドライブ

バイブル・エッセイ(1131)輝いて生きる

輝いて生きる

 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。(マルコ9:2-10)

「イエスの姿が目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」とマルコ福音書は記しています。高い山に登って祈り、これから自分に起こること、迫害も十字架も含めてすべてのことを神の手に委ねたとき、イエスの全身がまばゆい光を放ち始めた。そのように考えていいでしょう。

 イエスだけでなく、わたしたち人間は誰でも、神の手に自分のすべてを委ねたとき輝くようにできています。全身からかもしだされる喜びや安らぎが、おだやかな光となってわたしたちを輝かせるのです。もし輝かないとすれば、それはまだ神の手にすべてを委ねきっていないから。「ああなったらどうしよう、こうなったら困る」と将来のことを心配したり、「あの人だけは絶対にゆるせない」などと我をはったりしているからでしょう。

 このところ、教会のあちこちで、将来への不安の声が聞こえてきます。信徒の高齢化と若者の教会離れ、司祭、修道女の減少、宗教そのものに対する社会の態度の変化など、客観的に見て教会の直面している状況が厳しいのは事実だといってよいでしょう。しかし、だからといって不安や恐れを感じる必要はまったくありません。なぜなら、神がわたしたちと共にいてくださるからです。イエスが、迫りくる迫害や十字架上での死を予見しながら少しも恐れなかったのと同じように、わたしたちも、厳しい状況を現実として受け止めつつ、何も恐れずに進んで行けばいいのです。神の手にすべてを委ね、いま自分たちがすべきことを誠実に成し遂げてゆきさえすれば、道は必ず開かれる。神が、すべてを一番よいようにしてくださる。それが、わたしたちの信仰なのです。

 「ああなったらどうしよう、こうなったら困る」と暗い顔をして嘆いている暇などありません。なぜなら、わたしたちにはまだできること、いますべきことが山ほどあるからです。たとえば、高齢や病気のため教会に来られない人が増えていく中で、どうやってその人たちとつながり続けるか。その人たちも含めて一つの教会として進んでいくにはどうしたらいいか。自分自身もやがて教会に来られなくなる日がくるという現実を直視しつつ、いまこそこの課題に真剣に取り組む必要があると思います。教会の外でも、一人暮らしの高齢者、あるいは経済的に困窮した家族やその子どもたち、地震など自然災害で被害を受けた人たちなど、助けを必要としている人たちがたくさんいます。その人たちに助けの手を差し伸べ、神の愛を届けることも、わたしたちの大切な使命です。そのように考えていると、将来のことを嘆いている暇などまったくありません。わたしたちにはまだできること、いますべきことが山ほどあるのです。

 将来のことをすべて神の手に委ね、神から与えられた使命を精いっぱいに果たすとき、わたしたちは輝き始めます。教会も輝き始めます。その輝きは人々の心を照らし、神のもとに引き寄せるでしょう。わたしたちが輝いている限り、心配すべきことなどなにもありません。イエスと共に、日々を輝いて生きられるよう、心を合わせて祈りましょう。

youtu.be

※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞお役立てください。