バイブル・エッセイ(869)分裂をもたらすために

f:id:hiroshisj:20190818204939j:plain

分裂をもたらすために

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」(ルカ12:49-53)

「私が地上に平和をもたらすために来たと思うのか。むしろ分裂だ」とイエスは言います。イエスは、弱者の犠牲の上に成り立つ見せかけの平和を打ち壊し、すべての人が「神の子」として幸せに生きられる世界を実現するためにやって来たということでしょう。イエスと出会い、わたしたちの心に「神の愛」が宿るとき、地上には必ず分裂が生まれるのです。
 例えば、わたしたちはいま「平和」を神に感謝しています。ですが、この地球上を広く見渡せば、いまの時代が決して平和な時代でないことは明らかです。たくさんの人たちが戦火に巻き込まれ、難民となり、病や飢えで命を落としている。だが、自分たちとは関係がない。「平和」な国に生まれてよかった、というような意味での「平和」は、神の望む平和ではありません。むしろ、わたしたちは苦しんでいる人たちの叫びに耳を傾け、苦しみを生み出す悪に立ち向かう必要があります。悪に打ち勝ち、すべての人が幸せに暮らせる世界こそ、神が望む平和な世界なのです。
 もっと身近なことで、学校や職場、教会などで仲間が何らかのトラブルによって苦しんでいるとき、「自分とは関係がない。わたしの平和な日々をかき乱さないでほしい」と思うなら、そのような「平和」は神が望む平和ではありません。仲間を苦しませている悪と立ち向かい、それに打ち勝ってこそ、初めて真の平和が実現するのです。
「分裂」は、わたしたちの心の中にも起こります。 もし自分自身が家族や友人を裏切り、人を傷つけるような行為をしている場合には、「このくらいは大丈夫」という気持ちと、「こんなことはすべきでない」という気持ちの間に葛藤が生まれるのです。そのような心の分裂、葛藤に打ち勝ち、愛を貫いたときわたしたちの心に宿る安らぎ。それこそが真の平和なのです。
「自分さえよければ」あるいは「自分たちさえよければ」と考え、他の人たちの苦しみを無視することで成り立つ「平和」を壊し、真の平和を実現するためにイエス・キリストは来られました。イエスはわたしたちの心に「火」、すなわち愛の火を投じ、無関心や偽善を焼き払って、真の平和を実現するために来られたのです。わたしたちはいま、本当に平和な世界に生きているのか。自分の心は本当に平和なのか、あらためて見直したいと思います。

 

バイブル・エッセイ(868)ともし火をともす

f:id:hiroshisj:20190811181558j:plain

ともし火をともす

「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(ルカ12:35-40)

 主人がいつ帰って来てもいいように、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」とイエスは言います。主人のことを忘れ、自分勝手なことを始める僕のようではいけない。どんなときでも、主人のことを第一に考える僕でありなさい、ということでしょう。どんな状況でも神を忘れず、愛の光を灯し続けることこそ私たち僕の使命なのです。
 旧約の時代に人々が神を忘れる一つのパターンは、困難の中で「自分たちは神から見捨てられた、神などいないのだ」と思い込んでしまうことでした。モーセに率いられて旅をする人々は、そのようにして神のみ旨に背き、神から国を委ねられた王たちは、敵を恐れて異教の神を崇めたのです。わたしたちも、同じようなことをしてしまいがちです。大きな困難に直面したとき、神を忘れ、自分の欲望に溺れたり、偶像にすがりついたりしてしまいがちなのです。
 不安や恐れの中で神を見失ったとき、わたしたちは自分の欲望を神にしてしまいがちです。「やけ食い」などはそのいい例でしょう。「もう駄目だ。限界だ」などと思ったとき、わたしたちは神に祈る代わりに、ついおいしいものに手を出してしまうのです。結果として、そのとき欲望は満たされますが、あとで深い後悔に襲われることになります。お腹を壊したり、健康を損ねたりして、自分で自分を苦しめることになるからです。「買い物で憂さ晴らし」というのも、きっと同じことでしょう。これも、後で後悔することが多いようです。必要以上のもの、身に余るものを買っても、使い道がないからです。このような行動の延長線上に、不安や恐れに駆り立てられて、富や名誉、権力を求める人生もあるのでしょう。いずれにしても、待っているのは身の破滅と深い後悔です。
 偉そうなことを言いながら、わたし自身も、つい「やけ食い」してしまうようなことがときどきあります。神様は人間の弱さをゆるしてくださる方ですから、きっとゆるしてくださるはずですが、できればそのような姿を見せて神様を悲しませないようにしたいものです。神様は留守であっても、いなくなってしまったわけではありません。どんなときでもわたしたちのことを思い、わたしたちの元に向かって急いでおられるのです。たとえ遅くなったとしても、神様は必ずわたしたちを助けに来てくださるのです。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とヘブライ人への手紙にありますが、神様はわたしたちを決して見捨てない、必ず困難から救い出してくださるという確信を持つこと。どんなときでも神を忘れないことこそ、信仰の要だといっていいでしょう。信仰は、難しい教義を学ぶことよりも、むしろ単純素朴に神の愛を信じること、神を待ち続けることの中にあるのです。どんなときでも神の愛を忘れず、愛の光を灯し続けられるように祈りましょう。

バイブル・エッセイ(867)神の前で豊かになる

f:id:hiroshisj:20190804202156j:plain

神の前で豊かになる

 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」(ルカ12:13-21)

 財産のことで思い悩む人にイエスは、自分が今晩、死ぬことも知らず、大きな倉に富を蓄えて喜ぶ金持ちのたとえを語り、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と諭しました。地上でどれほどの富をかき集めても、死によってすべて奪い取られる。富を積むなら、地上ではなく、神の前に積みなさいということでしょう。
 この話は、「なんという空しさ、すべては空しい。...人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう」というコヘレトの嘆きにも通じるものです。自分のためにどれほど富や名誉、権力を手に入れたところで、いずれは死によってすべて奪われてしまう。ならば、自分の人生にはいったいどんな意味があるのかとコヘレトは嘆くのです。
 コヘレトの嘆きは、よく分かるような気がします。わたし自身、仕事で疲れ切ったときなど、「なぜこんなに働かなければならないんだ。こんなことをして一体なんの役に立つのか」と嘆きたくなることがあるからです。そんなときわたしは、その日に出会ったたくさんの人たち、明日出会うたくさんの人たちの顔を思い浮かべることにしています。悲しみや苦しみに沈んだその人たちの顔が、少し明るくなったり、喜びで満たされたりした顔を思い浮かべるのです。そうすると、「いや、わたしがやっていることには確かに意味がある。また明日も頑張ろう」という気持ちが湧き上がってきます。
 自分のために富を積み、欲望を満たしたとしても、それだけでは決して人生に意味を見つけられません。なぜなら、富は死によって奪い去られるし、欲望はどこまでいっても完全に満たされることがないからです。死によっても奪われないもの、人生に意味を与え、心を満たしてくれるものがあるとすれば、それはきっと、誰かの役に立つことができたという実感でしょう。自分を差し出すことで誰かを苦しみから救うことができた、誰かを支えられたという実感は、死でさえ奪うことができません。その実感こそが、わたしたちの心を満たし、人生に意味を与えてくれるのです。「人生の真の喜びの秘訣は、他者への優しい心にあり、それが利己的な我執から人類を解放する」と昨日の説教の中でソーサ総会長がおっしゃいましたが、誰かを幸せにできたときに私たちの心に生まれる喜びこそが、わたしたちの人生に意味を与え、幸せをもたらしてくれると言っていいでしょう。
 神の前に豊かになるとは、そのような人生の意味の実感を、心に蓄えてゆくことだと考えたらいいと思います。誰かのために自分を差し出せば差し出すほど、誰かを愛すれば愛するほど、わたしたちの心は豊かになります。その豊かさは、死によっても決して奪われません。心に愛を蓄えるとき、わたしたちは同時に、天国にも富を積んでいるのです。地上に富に心を引かれず、ただ天に富を積むことだけを考えて生きられるよう、神に恵みを願いましょう。

バイブル・エッセイ(866)罪のゆるし

f:id:hiroshisj:20190728113017j:plain

罪のゆるし

 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」(ルカ11:1-4)

 イエスが弟子たちに、祈り方を教える場面が読まれました。イエス自身が教えた特別な祈りですから、幼稚園でもこのまま子どもたちに教えるのですが、ときどき「わたしたちの罪を赦してください」というのはおかしいのではないかという疑問の声が上がります。3歳や4歳の子どもが、罪を犯しているとは常識的にいって考えられないからです。
 ここで罪というのは、「犯罪」というような大きなことではなく、わたしたちの心の中にあって、わたしたちと神を隔てるもの。神を悲しませるもの、と考えたらよいでしょう。人を傷つけたり、自分自身を傷つけたりするようなこと。「互いに愛し合いなさい」という神の思いを踏みにじるような思い。それが罪なのです。わたしたちは誰も、心の中で「そんなことはしてはいけない」と分かっています。そんなことをすれば、相手がかわいそうだし、自分自身の心も痛むからです。それにも拘らずついやってしまう。それが罪なのです。
 そう考えれば、幼稚園の子どもでも、心の中に罪か入り込む可能性はあるでしょう。よくないことだと自分でも分かっているのに、ついやってしまう。相手や神さまを思う心を、わがままな心が押しのけてしまう。そんなことは、子どもから大人まで、誰にも起こりうることなのです。
 生まれながらに罪深いわたしたちですが、悔い改めて祈るとき、神は必ずゆるしてくださいます。アブラハムが、ソドムの町を滅ぼさないよう神に願った話の中で、神は最後に、正しい人がたとえ十人でも「その十人のためにわたしは滅ぼさない」と言われました。これは、わたしたちの心の中にある正しい思いと置き換えて考えてもいいでしょう。たとえ99%が罪に覆われていたとしても、わたしたちの心に、ほんの1%でも、よいことだけを行いたい。神を悲しませたくないという思いが残っているなら、神はわたしたちを必ずゆるしてくださるのです。「求めなさい。そうすれば、与えられる」とイエスは言いますが、わたしたちが諦めずにゆるしを願い続ける限り、神は必ずその願いを聞き入れてくださるのです。
「主の祈り」は「わたしたちの罪を赦してください」と願った後、「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦します」と続きます。これは、ある意味で当然の流れでしょう。自分がどれだけ弱く、罪深いかを自覚するとき、わたしたちは人を責めることができなくなるのです。神の前で自分の弱さ、罪深さを認めながら、他の人を厳しく責める人がいるならば、その人はまだわかっていない。心の底から反省はしていないということになるでしょう。ゆるしを願って祈る人は、他の人たちをゆるすことを心に固く誓う人でもあるのです。
 罪、罪と言ってきましたが、そのことばかり考えて暗くなれということではありません。むしろ、罪のゆるしを信じるとき、わたしたちの顔は喜びに輝くのです。「主の祈り」は、「父よ」という呼びかけから始まります。父なる神は、何があっても子であるわたしたちを見捨てない方、どんな罪でもゆるしてくださる方。そのことを信じましょう。

バイブル・エッセイ(865)それぞれの使命

f:id:hiroshisj:20190721185446j:plain

それぞれの使命

 イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10:38-42)

 イエスをもてなすために大忙しのマルタが、「わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか」とイエスに苦情を言っている場面が読まれました。このような苦情は、わたしたちの日常生活の中でもよく聞かれます。忙しいとき、わたしたちはつい「何でわたしばかりこんなに忙しいのですか」と苦情を言ってしまいがちなのです。
 妹に対するマルタの苦情は、ちょうど「放蕩息子のたとえ話」の兄の苦情と重なっています。放蕩息子の兄は、「わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません」と父である神に苦情を言いました。自分はこんなに働いているのに、なぜ弟をかわいがるのかということです。この話を聞いて、兄に共感する人は多いでしょう。働いているわたしたちが報われるのが当然で、怠け者が報われるのはおかしいと、つい考えてしまうのです。
 ですが、兄は一つ大切なことを忘れています。それは、父のもとで衣食住に困らず、やりがいのある使命を与えられて働くことができる。そのこと自体が恵みだということです。弟は、どん底の苦労の末にそのことに気づき、父のもとに帰ってきました。再び父のもとに戻れたことを、涙を流して喜んでいるのです。父のもとで働けること自体が大きな恵みである。幸せは、平凡な日々の暮らしの中にこそある。兄がもしそのことに気づいていれば、弟についてこれほど苦情を言うことはなかったでしょう
 わたし自身も、同じような苦情を言ってしまうことがよくあります。幼稚園や刑務所、教会の仕事、あちこちでの研修会、講演会などが立て込んで仕事に忙殺され、疲れ切っているときなど、「なぜ、わたしばかりこんなに働かなければならないのですか」と、ついつぶやいてしまうのです。ですが、よく考えてみれば、一つひとつの仕事はとてもやりがいのあるものです。子どもたちの喜ぶ顔、受刑者たちの真剣な表情、聴衆の笑顔を思い浮かべれば、また頑張ろうという気持ちが湧き上がってきます。神様はわたしに、こんなに素晴らしい使命を与えてくださったと思い、感謝できるようになるのです。
 イエスは、自分の言葉に耳を傾けたマリアが優れており、忙しく働いていたマルタが劣っていると言っているわけではありません。マルタにはマルタの使命があり、マリアにはマリアの使命がある。大切なのは、その使命を喜んで果たすことだ。イエスはマルタに、そのことを思い出させたかったのでしょう。自分の使命を感謝して受け取り、その使命を精一杯に果たす。そのような日々の中にこそ、わたしたちの本当の幸せがあるのです。忙しすぎて苦情を言いたくなったときには、自分には自分の使命があるということを思い出し、感謝してその使命を受け取りたいと思います。

 

バイブル・エッセイ(864)愛の掟

f:id:hiroshisj:20190714164932j:plain

愛の掟

 ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(ルカ10:25-37)

「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」という律法学者の質問に、イエスは「律法には何と書いてあるか」と答えます。律法学者なら、そのくらい知っているだろう。何でそんなことを聞くんだ、ということでしょう。案の定、律法学者は正しい答えを知っていました。それでもしつこく食い下がる律法学者に、イエスはたとえばなしを聞かせ、「あなたは、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と尋ねます。「あなたはどう思うのか」、つまり「自分の心に聞いてみなさい」ということです。律法学者は、正しい再び正しい答えを出します。結局、律法学者は、イエスに聞くまでもなく、「永遠の命を受け継ぐ」ために必要なことを知っていたのです。知っているけど、なかなか実行できない。だから、理屈を曲げて、実行しなくていいことにしてしまいたい。それが、律法学者の本音だったのでしょう。
 このたとえ話は紙芝居や絵本にしやすいので、幼稚園でもよく子どもたちに話します。三人のそれぞれの対応を話して、「この中で、いいことをしたのは誰かな」と聞くと、どんなに小さな子どもでも「助けてあげた人」と答えます。どんなに小さな子どもでも、何がよいことで、何が悪いことかを知っているのです。「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」と申命記にありますが、人間の心には、すでに生まれたときから、何がよいことで、何が悪いことなのかが書き込まれているのではないか。そんな気がします。「人を傷つけたり、苦しんでいる人を放って置いたりしてはかわいそう。かわいそうなことはすべきでない」という掟。これこそが、すべての人間の心に刻まれた愛の掟なのではないでしょうか。この掟に従うときにこそ、わたしたちは互いに助け合い、労わりあって、幸せに生きることができるのです。
 「掟」というと何か怖い感じがしますが、わたしたちの心に書き込まれていることは、「取り扱い説明書」と呼んでもいいかもしれません。説明書に書いてあるとおりに、した方がいいことをし、しない方がいいことはしなければ、わたしたちは自分の人生を一番よく生きることができるのです。逆に、説明書を無視して好き勝手な使い方をすれば、きっと心は途中で壊れてしまうでしょう。心に書かれている説明書をよく読むこと。自分の心としっかり向かい合い、心に刻まれた愛の掟に従って行動することこそが、わたしたちが幸せになるための唯一の道なのです。
 大人になるにつれて、わたしたちは、子どもでも知っている単純な「愛の掟」、心の取り扱いルールを守れなくなってゆきます。それは、だんだんエゴが育ち、「自分さえよければいい」という考えに流されてゆくからでしょう。心に刻まれた愛の掟を素直に受け入れ、それを生きるための勇気と力を、神に願いたいと思います。

 

 

 

バイブル・エッセイ(863)誇るべきもの

f:id:hiroshisj:20190707212535j:plain

誇るべきもの

 このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。(ガラテア6:14-18)

「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」とパウロは言います。イエス・キリストと共に自分を十字架にかけ、神にすべてを捧げたわたしたちに、もし誇るものがあるとすれば、それはわたしたちを救ってくださったイエス・キリストの偉大さ。神の愛の偉大さだけだということでしょう。十字架にかけられたわたしたちには、他に誇るものなど何もないのです。
 ですが、わたしたちはつい自分のことを誇ってしまいがちです。わたしであれば、たとえば説教するとき、人前で話す機会を与えられたときなど、特に注意しなければなりません。気をつけないと、神父という立場を与えられた自分を誇ったり、神ではなく神を信じている自分がどれだけ素晴らしいかをとくとくと語ったり、神の名においてこれまで自分が上げた実績を自慢したり、そのようなことが起こってしまいがちだからです。福音を宣教するために遣わされたはずなのに、福音ではなく、自分を宣教してしまう。そんなことがよくあるのです。
 わたしたちが誇るべきなのは、イエス・キリストだけだということを忘れないようにしたいと思います。こんなにつまらない自分を、イエスがどれだけ愛してくださったか。イエスから愛されることによって、自分の人生がどれだけ変えられたか。喜びに満ちたものになったか。わたしたちが語るべきなのは、そのことだけなのです。わたしたちは、罪にまみれた自分の人生を十字架につけること、自分の人生をすっかり神に捧げることによって、新しい人生を与えられました。イエス・キリストの十字架によって罪の闇から解放され、まばゆい復活の栄光に照らされて生きる道へと歩み出したのです。そのことの素晴らしさを、情熱を込めて語る。自分のことはまったく誇らず、ただ自分を救ってくださった神の素晴らしさだけを語る。それがわたしたちの使命なのです。
 イエスは、宣教の旅に出る弟子たちに、「財布も袋も履物も持って行くな」と命じました。それは、ただ神への信仰だけを持って旅に出なさいということだったのでしょう。大きな財布があれば、それを持っている自分を誇るかもしれないし、袋があれば、その中に入っているものを誇るかもしれません。ですが、はだしで歩く泥だらけの自分、徹底的に惨めな自分、ただ神によって救われた自分しか持っていないなら、誇るべきものはただ神だけです。こんな自分でさえ、神は救ってくださった。その素晴らしさを語るためには、何も持ってゆく必要はありません。むしろ、何も持っていない方が、わたしたちは福音宣教の使命をよりよく果たすことができるのです。
 実際に、何も持たずに旅に出ること、何の蓄えも持たずに生きることは、現代社会では難しいでしょう。ですが、心はどんなときでも、弟子たちと同じであるべきだと思います。何かを持っていたとしても、それは神が与えてくださったから。そのことを忘れず、何かを持っていたにしても、まるで何も持っていないかのように、すべてを神から与えられた者としての謙虚さだけを持って、福音を伝えてゆくことができるように祈りましょう。