バイブル・エッセイ(1183)神の導き

神の導き

 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。(ルカ3:15-16、21-22)

 イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受け、祈っておられると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたとルカ福音書は記しています。この声を聞いた後、イエスは「神の子」としての自分の使命に目覚め、福音宣教を開始しました。この一言が、イエスの生涯を決定したといってもよいでしょう。
 「主の洗礼」という出来事を考えるとき、そもそも、なぜイエスがヨハネから洗礼を受ける必要があったのかという疑問があります。ナザレの村で大工をしていた30歳の青年イエスは、なぜ、当時、預言者として評判だったヨハネのもとに出かけたのでしょうか。それはおそらく、青年イエスの心の中に、「自分はこのまま大工をしていていいのだろうか。何か別に使命があるような気がする」という思いが強く湧き上がったからだろうと思います。それが何なのかを確かめるために、イエスはヨハネのもとを訪ねた。わたしはそんな風に想像しています。
 わたし自身も、若い頃に似たような体験をしたことがあります。大学3年生のときのことです。当時、わたしは弁護士になろうと思って、日々、法律の勉強に励んでいたのですが、大学3年生の秋に父が突然、心筋梗塞で帰天してしまいました。葬儀などが済んでぼーっとしていたとき、わたしの心の中に、「自分の人生はこのままでいいのだろうか。もっと他にすることがあるのではないか」という思いが湧き上がってきました。父の突然の死を前にして、自分の人生の意味をもう一度問い直さざるを得なかったと言ってもいいかもしれません。その思いがどんどん強くなったので、わたしはしばらく、自分の人生について考え直してみることにしました。その中でたまたま出会ったキリスト教の本に導かれ、やがて、その本を書いた神父さんから洗礼を受けることになったのです。
 しかし、すぐに人生の道が示されることはありませんでした。そのあとわたしは、「神の愛」についてもっと実感を持って知りたい、「すべての人がかけがえのない神さまの子ども」と頭で理解するだけでなく、「わたし自身も、かけがえのない神さまの子どもなのだ」と心の底から信じたいと願い、そのための手掛かりを求めてインドのマザー・テレサのもとに出かけたのです。1年に及ぶインドでの体験や、帰国後の「霊操」の体験の中で、しだいに「わたしも、神さまから愛されたかけがえのない存在なのだ」という確信、あるいは信仰と言ってもいいかもしれませんが、そのような思いがようやく芽生え始めました。そのとき、わたしの前に司祭への道が開かれたのです。
 青年イエスの体験は、もしかすると、多くの青年に当てはまることなのかもしれません。「このままでいいのだろうか」という強い思いによって神さまに導かれて道を探し求め、探し求める中で自分も「神の子」なのだと確信できたとき、「神の子」としての自分の使命が示されるということです。このような導きは、どんな年齢でも起こりうることだと思います。神さまの愛の中で、わたしたちが、それぞれに「神の子」としての自分の使命に気づくことができるよう祈りましょう。

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※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞお役立てください。

 

こころの道しるべ(251)道は開く

道は開く

あきらめず叩き続ければ、
扉は必ず開きます。
もし開かないとすれば、
それはまだ時が来ていないから。
願い続け、叩き続ける日々の中で
少しずつ成長し、扉から入るのに
ふさわしい準備ができたなら、
そのとき、扉は開くでしょう。

『悲しみの向こう~希望の扉を開く言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(1182)巡礼の旅

巡礼の旅

 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民 イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。(マタイ2:1-12)

 輝く星に導かれて遠い旅をした博士たち。たどり着いたのは、ごく普通の家の前でした。「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた」とマタイ福音書は簡潔に記していますが、おそらく博士たちはその家の中で、幼子イエスを胸に抱いたマリア様の姿を見たのでしょう。そのとき、博士たちはひれふして宝物を差し出しました。ついに、自分たちが救い主を探し当てたと確信したからです。

 星に導かれて旅をした博士たちを、巡礼者と考えてもよいでしょう。博士たちは、輝く星を追い、救い主が誕生したという希望に導かれて旅をする「希望の巡礼者」たちだったのです。輝く星を見上げながら野宿する夜に、博士たちは「ユダヤの王というからには、どんな立派な家に住んでいるのだろう」「メシアとなる赤ん坊は、どんな姿をしているのだろう」などと想像したかもしれません。しかし、実際にたどりついたのは、宮殿や豪邸ではなく、ごく普通の家でした。その家の中で赤ん坊を愛情深く抱きしめる母親、それを見守る父ヨセフのやさしい笑顔、すやすや寝息を立てて眠る幼子イエスを見たとき、博士たちは、ここに救いがあると確信しました。互いに愛し合い、一つに結ばれたその家族の中にこそ、人間の救い、人間の本当の幸せがある。長い旅路の果てに、博士たちはそう気づいたのです。

 わたし自身も、若い頃に巡礼の旅をしたことがあります。聖地を訪れ、イエスが十字架を背負って歩いたとされるエルサレム旧市街の道を歩いたり、ガリラヤ湖の周りを自転車で一周したりしたこともあります。旅の中で、「ここをイエスが歩いたのか、すごいな」とか「きれいな景色だな」という感動を味わうことはありましたが、残念ながら、「ここにわたしの救いがある」と思うような体験はありませんでした。

 わたしが「救い主」と出会ったと思える体験をしたのは、むしろ、インドで貧しい生活をしながら人々に奉仕する、マザー・テレサと出会ったときでした。相手によって態度を変えることなく、家のない貧しい人でも、人生の道に迷った金持ちでも、まったく同じようにやさしく迎え入れるマザー。死にかけた貧しい人に、母のような慈しみ深いまなざしを注ぐマザー。その姿を見たとき、わたしは「ここに救いがある」と確信したのです。マザーの中に、そして、マザーを突き動かしていたイエスの愛の中に、救いを見つけ出したと言ってよいでしょう。

 博士たちの体験とわたし自身の体験を重ね合わせたときに言えるのは、わたしたちの救いは、愛しあう家族の中に、大切な誰かのために喜んで自分を差し出す無私の愛の中にこそあるということです。巡礼の終着点は、どんな場合でも愛の中にある。そう言ってもいいでしょう。そのことに気づいて、自分の人生を愛のため、神のために捧げる決心をするとき、わたしたちの巡礼は次の段階に入ります。イエスを探し求める巡礼は終わり、イエスと共に歩む人生の巡礼が始まるのです。博士たちと共に救いを見つけ出し、新たな人生の一歩を踏み出すことができるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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バイブル・エッセイ(1181)思い巡らす

思い巡らす

 そのとき、羊飼いたちは急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、彼らは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。(ルカ2:16-21)

 羊飼いたちの話を聞いた人たちは、皆その話を「不思議に思った」が、マリアは「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」とルカ福音書は伝えています。マリアと他の人々では、羊飼いたちの話を聞く態度がまったく違ったのです。この違いにこそ、マリアが「神の母」として選ばれた理由があるように思います。
「心に納めて、思い巡らす」とは、単に「不思議だな」と思ったり、「困ったな」「なぜこんな目にあわなきゃいけないんだ」と嘆いたりして終わるのとはまったく別の態度だと言っていいでしょう。「心に納めて、思い巡らす」とは、いったんすべての出来事をあるがままに受け止め、その出来事を通して神さまが何を語りかけておられるのかを考えること。「神さま、あなたはこの出来事を通してわたしに何を語りかけておられるのでしょうか」と祈り続けることだからです。自分の限られた体験や知識の中で判断せず、謙虚な心で、神さまに出来事の意味を問い続ける。出来事を通して語りかける、神さまの声にじっと耳を傾ける。それが、マリアのとった態度だったのです。
 さまざまな変化に直面し、変化に翻弄されている現代のわたしたちは、いまこそこのマリアの態度に学ぶべきでしょう。たとえば、いま多くの小教区は高齢化と若者の教会離れという現実に直面しています。信徒数は減少し、このままでは聖堂の維持・管理ができなくなりそうな状態です。小教区だけでなく、あちこちから修道院やキリスト教施設の廃止、定期的刊行物の廃刊などのニュースも飛び込んできます。このような出来事の中で、教会のあちこちから、「こんなに頑張ってきたのに、なぜこんなことになるんだ」という嘆きの声が聞こえてきます。
 わたしも嘆きたい気持ちはありますが、それだけで終わらせてはならないと思います。これらの出来事を通して、神さまがわたしたちに何かを語りかけておられるに違いないからです。起こっている出来事は出来事として、あるがままに直視し、受け止める必要があるでしょう。出来事を直視せず、「神さまがすべてよくしてくださるから大丈夫」というのでは、神さまがわたしたちを助けようと語りかけておられる声を聞きのがしてしまいます。神さまはきっと、これらの出来事を通して、わたしたちをこれまでとは違った教会のあり方、21世紀を生きる現代の人々に最もふさわしい福音の伝え方を教えようとしているのです。落胆してあきらめず、謙虚な心で神さまの声に耳を傾け続けるなら、これまで想像もできなかったような形で、教会は再び力を取り戻すでしょう。わたしはそう信じています。
 これは教会だけでなく、わたしたち一人ひとりの人生にも当てはまるでしょう。「こんなに頑張ったのに、なぜこんなことになるんだ」と嘆くだけで終わらせず、その出来事を通して語りかけておられる神さまの声に耳を傾ける。それこそ、マリアがわたしたちに示してくれた信仰の模範です。すべての出来事を心に納め、それらを通して神さまが語りかけてくださる言葉に耳を傾けられるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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こころの道しるべ(250)与える幸せ

与える幸せ

みんなの幸せな顔を見ることが自分の幸せ。
それ以外には、何の見返りも求めない。
サンタクロースは、
そんな生き方の素晴らしさを教えてくれます。
いつまでも消えない本当の幸せは、
受け取ることより、
むしろ与えることにあるのです。

『悲しみの向こう~希望の扉を開く言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(1180)共に祈る家族

共に祈る家族

 両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。(ルカ2:41-52)

 行方不明になったイエスを、ようやく探し当てた両親に、イエスは「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と言いました。口答えのようにも聞こえますが、きっとイエスは、いま起こっている出来事の意味がまだよくわかっていない両親を、教え導くようにやさしく語ったのでしょう。「人間は誰も、父なる神の家に帰る。人間の思いではなく、父なる神の思いに従って生きることこそ人間の幸せなのだ」、イエスはきっと、両親にそのことを教えたかったのだと思います。
 聖家族というとき、わたしはマザー・テレサから聞いた、「共に祈る家族は、共にいる。決して離れ離れになることがない」という言葉を思い出します。「共に祈る」ということは、朝晩に祈りの時間を決めて、一緒に集まって祈るということでしょう。共に祈る限り、共にいるというのは、ある意味で当たり前のことにも思えます。
 しかし、マザーのこの言葉には、もっと深い意味があるように思います。祈るというのは、自分自身の限界を認め、神さまの声に耳を傾けることだからです。家族の場合で言えば、親は、「神さまがこの子どもにどんな使命を与えておられるのか、わたしにはわからない」ということを素直に認めて、「神さま、この子が進むべき道を、わたしたちにお示しください」と祈る。子どもは、「神さまがなぜこの両親のもとに自分を送ったのか、わたしにはわからない」ということを素直に認めて、「神さま、わたしはこの両親のために何をすべきなのでしょうか」と祈る。家族の全員が父なる神の前にひざまずいて祈り、父なる神に家族を委ねるとき。親でも子どもでもなく、父なる神が家族を指導するとき、その家族は、いつまでも離れ離れになることがありません。そのような家族こそが、「聖家族」なのだと言ってよいでしょう。
 マリアは、行方不明になったイエスを見つけたとき、「なぜこんなことをしてくれたのです」といってイエスを責めました。イエスが自分たちの思った通りに行動することを期待していたからです。もしマリアがこのとき、イエスを父なる神に委ねていたのならば、「神さま、なぜこの子はこんなことをしたのでしょう」と祈りのうちに神に尋ねるべきだったでしょう。わたしたちもつい、同じようなことをしてしまいがちです。神の思いを尋ねる前に、自分の思いを子どもに、あるいは親に押しつけてしまいがちなのです。「どうしてわたしを探したのですか」というイエスの言葉には、「まずは、神さまの思いを探しなさい。そうすれば、何もあわてる必要がないことがわかる」というイエスの思いが込められていたのかもしれません。
 すべての出来事を「心に納めて」思い巡らすうちに、マリアは次第に、イエスの使命に気づいていきます。父なる神に導かれながら、ヨセフ、マリア、イエスは、少しずつ「聖家族」になっていったのです。わたしたちも、家族と共に祈ることで、「聖家族」の理想に近づいていくことができるよう祈りましょう。

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バイブル・エッセイ(1179)福音の光

福音の光

 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(ヨハネ1:1-5、9-14)

 イエス・キリストは「まことの光で、世に来てすべての人を照らす」、しかし「民は受け入れなかった」とヨハネ福音書は記しています。これは、2000年前にも、そしていま現在も起こっていることだと思います。せっかく光がきたのに、人々は心を閉してその光を受け入れようとしない。暗闇の中にとどまり、苦しみ続けている。なぜ、そんなことが起こるのでしょうか。

 まず、イエスがもたらした光とは何だったかを思い出す必要があるでしょう。イエスがもたらした光、イエスが告げた福音とは、すべての人が、神に愛された、かけがえのない神の子だ。どんな命にも、生きているというだけで限りない価値があるということでした。この福音を告げるために、イエスはあえて当時の常識を破り、徴税人や売春婦、重い病気にかかった人たちなど、当時の社会で罪人、価値のない人とみなされた人たちところに出かけて行き、その人たちにあふれるほどの愛を注いだのです。「誰がなんと言おうと、あなたたちはかけがえのない神の子。生きているというだけで限りない価値がある」、この福音こそ、絶望の闇の中をさまようすべての人を照らす光でした。

 この光は、最初に、羊飼いたちの心を照らしました。社会の片隅に追いやられ、「羊飼いに過ぎない自分には、人間として価値がない」と思い込まされていた彼らの心に、「こんなわたしたちでもかけがえのない神の子、限りなく価値のある存在なんだ」という希望の光が灯されたのです。次にこの光は、王たちの心を照らしました。宮殿に住み、「自分が一番偉いんだ。みんな私の言うことをきけ」と威張り散らしていた彼らの心に、「自分だけが特別なのではない。わたしたちは誰もが大切な神の子ども。互いに愛しあって生きるべきなのだ」という真理の光が灯されたのです。

 しかし、この光を受け入れない人もたくさんいました。羊飼いのような貧しい者には価値がなく、王のような富と権力を持つ者にこそ価値があると思い込んで、そこから出て来ようとしない人たちがたくさんいたのです。それは、現在でも同じだと思います。イエス・キリストの福音は、現在の社会の中で「すべての人がかけがえのない大切な存在。互いに愛し合い、平和に生きていこう」というメッセージとして普遍の輝きを放っていますが、「何をそんなきれいごとを。現実は厳しいのだ」といって、その福音を受け入れようとしない人がたくさんいるのです。

 わたしたち自身がそうかもしれません。イエスの福音を信じるといいながら、「こんな自分には価値がない」と自分を否定したり、「他人のことまでかまっていられるか」と自己中心的になったりして、闇の中に戻ってしまうことがよくあるのです。まず、わたしたち自身が、心の底から福音を信じ、福音の喜びの中に生きることができるように。そして、その福音の喜びを、世界中の人々に伝えていくことができるように、心を合わせてお祈りしましょう。

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