バイブル・エッセイ(900)イエスという答え

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イエスという答え

昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:45-54)

 イエスが十字架の苦しみのさなかに発した言葉、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」が、今年はより一層切実な言葉として響いてきます。いま世界中で多くの人々がこの同じ問いを発しているからです。「わが神、なぜわたしがこの病気にかからなければならないのですか」「わが神、なぜわたしの母親をこんな仕方で奪うのですか」「わが神、なぜうちの子どもをこんなひどい目にあわせるのですか」、新型コロナウィルスに感染した人やその家族から、日々発せられるこの「なぜ」という問いに、神は一体どう答えるのでしょう。果して答えはあるのでしょうか。

 大きな自然災害が起こったり、伝染病が流行してたくさんの命が奪われたりするたびごとに、「神がいるなら、なぜこんなひどいことが起こるのか」と疑問が生まれてきます。神を信じている人にとっては、この疑問はより大きく、深刻なものになるでしょう。これまで「わたしは神様から愛されている。神様がわたしを見捨てることは決してない」と心の底から信じて生きてきたからです。それにもかかわらず、ひどい苦しみの中にあって助けを求めて叫ぶ自分の声に、神様がまったく答えてくれない。そんなとき、「なぜ」と問いたくなるのは当然のことだと思います。

 一生懸命に「なぜ」と考えてゆくと、いくつかの可能性を思いつくでしょう。たとえば、「神は人間を罰するためにこの疫病をもたらしたのだ」とする説。ですが、ならばなぜ悪事を犯した本人だけでなく、赤ん坊や幼い子どもたちまで命を奪われるのでしょう。「天国に行けばこの苦しみよりずっと大きな喜びが与えられる」とする説。この説は、最終的にはきっとそうなのだろうと思いますが、なぜ今こんなひどい苦しみが与えられるのかということに答えていないし、わたしたちの間にまだ天国を見た者がいないことからやや説得力に欠けるようです。

 納得できる答えが出てこないことから、「神などいないのだ。神がわたしを愛しているなんて嘘だったんだ」という結論に達する人もいるでしょう。ですが、自分に理解できないからといって神様の存在そのものを否定するとしたら、それは傲慢ではないかとわたしは思います。

 では、どうしたらいいのか。その答えは、いま読まれた聖書の箇所の中にあります。そう、イエスと共に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と神に問い続ければいいのです。苦しみの中でこの問いを発っしている人と共に「わが神、わが神、なぜわたしの愛するこの人をお見捨てになるのですか」と神に問い続ければいいのです。イエスでさえ分からなかったことを、わたしたちが理解できるはずがありません。わたしたちにできるのは、イエスと共に問い続けることだけなのです。イエスは問い続けるわたしたちのそばにいて、わたしたちの苦しみを最後まで共に担ってくださるでしょう。

 イエスと共に問いかけながら、この苦しみを乗り越えたときにこそ、わたしたちが求めていた答えが与えられるはずです。それはきっと、イエスと共に苦しみを乗り越え、復活の栄光に達した者にしかわからない答えであるに違いありません。どんなときでもわたしたちと共にいてくださるイエスを信じ、この試練のときをイエスと共に乗り越えられるよう祈りましょう。

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バイブル・エッセイ(899)命の炎

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命の炎

マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」(ヨハネ11:20-27)

 ラザロの死を悲しむ人たちにイエスは、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と力強く語り、「このことを信じるか」と問いかけました。どうでしょう。わたしたちは、「はい、信じます」とすぐに答えられるでしょうか。「死んでも生きる」というのは、ちょっと理解しがたい言葉です。どんなに元気な人でもいつか心臓が止まる日が来るし、心臓が止まればそれは死んだということ。心臓が止まっているのに生きているなんて、普通では考えられないことです。イエスはいったい何を言っているのでしょう。わたしたちは、何を信じればいいのでしょう。

 そもそも「生きる」とはどういうことでしょうか。イエスが言う「生きる」というのは、単に心臓が動いていることではなく、命があることだと考えたらいいでしょう。命とは、わたしたちを生かす力であり、わたしたちが創造されたとき、神さまによって灯された愛の炎です。命の炎、愛の炎が燃え上がるとき、そこから喜びや力、優しさの温もりが生まれます。心に愛の炎を灯し、喜びと力に満たされ、周りの人々を優しさの温もりで包んでゆく。それが、「生きる」ということなのです。

 イエスの言葉を信じるとき、わたしたちの心に命の炎が燃え上がります。イエスが、またイエスを通して父なる神がどれほどわたしたち一人ひとりを愛してくださっているかに気づくとき、「わたしは神に愛されている。神はどんなときでもわたしと共にいてくださる。神がわたしを見捨てることは決してない」と確信するとき、わたしたちの心に愛の炎が燃え上がるのです。その確信は喜びと力を生み、愛の炎の温もりは、わたしたちの周りにいるすべての人を包んでゆきます。そのとき、わたしたちは「生きる」者となるのです。

 イエスの言葉を信じ、神の愛を信じる限り、わたしたちの心に灯された愛の炎が消えることはありません。たとえ死がやって来たとしても、神の愛とつながっている限り、愛の炎が消えることは決してないのです。肉体の死の向こう側には、復活の世界が待っています。復活の世界では、わたしたち一人ひとりのうちに灯された命の火は、いまより一層まばゆい光を放つことでしょう。「生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがない」とは、そういう意味だと思います。

 新型コロナウィルスが、すさまじい勢いで全世界に広がってゆく状況の中で、わたしたちはつい不安や恐れにとらわれがちです。中には、神に見捨てられたような気持ちになる人もいるでしょう。このような状況の中では、わたしたちはイエスの言葉を信じられなくなってしまいがちなのです。不安や恐れにとらわれ、自分のことしか考えられなくなるとき。神の愛を信じられなくなって絶望し、自分勝手なことをし始めるとき、わたしたしたちうちに宿った命の炎は小さくなってゆきます。「生きているのに死んでしまう」ことにさえなりかねないのです。

 今こそ、イエスの言葉を思い起こすべきときでしょう。「わたしは神に愛されている。神はどんなときでもわたしと共にいてくださる。神がわたしを見捨てることは決してない」と信じて、命の炎を燃え上がらせることができるように。神さまの愛に結ばれて、この試練のときを乗り越えられるように祈りましょう。

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バイブル・エッセイ(898)世界の本当の姿

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世界の本当の姿

イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。(ヨハネ9:1.6-9)

 イエスが、盲人の目を開く箇所が読まれました。目を開く奇跡は、福音書の中にも度々登場する奇跡です。イエスは、見えなくっているわたしたちの目を開いてくださる方。わたしたちの心の目を開き、世界の本当の姿を見せてくださる方なのです。

 新型コロナウィルスの流行によってさまざまな行事がキャンセルになり、公開のミサまで中止になるなど先の見えない状況が続いていますが、逆に、この流行によって見えるようになったこともあると思います。新型コロナウィルスの流行によって与えられた時間の中で、普段、目先のことに追われて見えなくなっている、大切なことが見えるようになってきたのです。

 たとえば、先日、幼稚園の卒園式がありました。いつもなら、仕事に追われて、式が終わるとすぐ次に向かうというようなことが多いのですが、今年はゆっくり、最後の卒園児と保護者が門を出て、後片付けなどが終わるまでお付き合いすることができました。子どもたちともゆっくり別れを惜しみ、先生方ともゆっくりお話しすることができたのです。その中で、改めてわたしは、先生と子どもたちがどれほど深い絆で結ばれているか、先生方がどれだけ深い愛情を子どもたちに注いでいるかを実感することができました。確かに、わたしたちの園はキリスト教の園であり、先生と子どもたちとの間にはイエス・キリストがおられる。そう感じて、わたし自身の中でも幼稚園に対する思いがより深くなりました。

 目先のことに追われて見えなくなっていることは、他にもあります。たとえば、教会の隣にある市立図書館の駐車場の桜の木です。この木は、毎年、他の桜よりも1週間ほど早く花を咲かせます。鳥たちが蜜を吸いに来るので、楽しみに見に行くのですが、いつもは忙しいので10分かそのくらいしか見ていることができません。ところが、今年は時間にゆとりがあったので、たっぷり1時間以上眺めることができました。その結果、花の美しさ、鳥たちのかわいらしさ、空の青さ、風の冷たさなどを、いつもよりたっぷり感じることができたのです。「この桜が、これほどまでに美しく、たくさんの命を養っているとは」と改めて目が開かれる体験でした。神さまの恵みは、桜の木にも、空の鳥たちにも、あふれんばかり豊かに注がれているのです。

 目先のことばかりに気を取られて、見えなくなっていること。それは、見えることの背後にある神さまの愛ではないでしょうか。わたしたちの目は、よく見えているようでいても、一番大切なことが見えていないことが多いのです。新型コロナウィルスの大流行にあたって、ドイツのメルケル首相は国民に向けた演説の中で「わたしたちがどれだけ脆弱であるか、どれだけ他の人の思いやりのある行動に依存しているかをウィルスの蔓延は教えてくれます」と語りました。わたしたち一人ひとりは、助け合わずには生きられないくらい弱い存在である。それも、わたしたちが普段見失っている大切なことの一つでしょう。この困難なときを通して、イエスがわたしたちの目を開いてくださるように、普段、目先のことに追われて見えなくなっている、本当に大切なことに気づかせてくださるように祈りましょう。

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フォト・ライブラリー(601)カルカッタ・ダージリン巡礼④カーリー寺院と「死を待つ人の家」

カルカッタ・ダージリン巡礼④カーリー寺院と「死を待つ人の家」

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カルカッタ・ダージリン巡礼の写真報告も、今回が最終回。まずは、旅の食事をご紹介します。インドと言えば、やはりカレー。旅の間、カレーを食べる機会が多かったです。これはチキンカレー。辛さの度合いが日本とは違います。

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これはグリーンピースとカッテージチーズのカレー。マイルドな味で食べやすかったです。

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インド料理の定番、ダルカレー。ダルというのは、レンズ豆のことです。

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焼きたてのナン。カレーを付けなくてもおいしいくらいです。

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インドの飲み物というとラッシーやチャイが有名ですが、意外とお勧めなのがこれ、ライムを絞ってサイダーを加えたライムソーダ。さっぱりしていて飲みやすいです。

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街角で出会った兄弟。一緒に撮ってくれと頼まれました。

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今回の巡礼の最期の目的地は、カルカッタの外れにあるヒンドゥー教の聖地、カーリー寺院に隣接するマザー・テレサの施設「死を待つ人の家」です。

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たくさんの人々が行き交うカーリー寺院の参道。参拝に必要な花や土産物を売る店が、両側にびっしり並んでいます。

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鮮やかなサリーを身にまとった女性たち。寺院にお参りするときは、一番いい服を着て来るようです。

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お母さんに抱かれた子ども。澄んだ大きな瞳が印象的です。

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インドではよく見かける、サトウキビジュース屋さん。おいしそうですが、外国人観光客が飲むとお腹を壊す場合が多いようなので、まだ飲んだことはありません。

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額や髪につけたり、神様の像にかけたりして使う鮮やかな染料。ビンディと呼ばれています。

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こちらはトウモロコシ屋さん。火鉢で焼いて売っています。

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ココナッツの実を割るココナッツ・ジュース屋さん。見事な手際です。

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ストローをさして、ココナッツジュースを飲む人たち。おいしそうですね。

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道端で、参拝客を待っている人力車引きのおじさんたち。ずいぶん年季が入った人力車です。

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道端の土産物屋さん。黒い顔に目が3つ、舌をべろっと伸ばしているのが、カーリー寺院の主祭神、カーリー女神です。カルカッタという名前は、この寺院の名に由来するとも言われています。カーリーカッタ⇒カルカッタということでしょう。

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カルカッタで最も聖なる場所として、いつもたくさんの参拝者であふれるカーリー寺院の参道。古きよきインドの伝統を感じさせてくれます。

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カーリー寺院に隣接する、マザー・テレサの施設「死を待つ人の家」。道端で死にかけている人たちを、せめて最後は人間らしく天国に送ってあげたいというマザーの願いから生まれた施設です。

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「死を待つ人の家」の建物は、かつてカーリー寺院の巡礼者宿泊施設でしたが、マザーの志に共感した市当局によってマザーに貸し出されました。当初は反対も多かったそうですが、マザーの活動の様子を見て、誰も何も言わなくなったとのことです。

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久しぶりに「死を待つ人の家」でボランティアをさせてもらいました。かつては結核、癌などの患者さんが多く、本当に亡くなってゆく方が多かったのですが、現在では、重い怪我を負った方々のリハビリ施設として生まれ変わっていました。結核や癌の方は、専門の病院に入院させるそうです。

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参道で売られている祭器具。先が3つに割れた槍は、シバ神の槍だそうです。

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昔から変わらないカルカッタの生活風景。インドが急速に発展していると聞いて、変わってしまったのではないかと心配していましたが、25年前とあまり変わっていないので安心しました。

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最期に、マザー・ハウスで、マザー・テレサの3代目の後継者シスター・プレマと記念撮影。明るい笑顔が印象的な、ユーモアのセンスにあふれたシスターです。

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マザーのお墓での、巡礼団としての最後の記念撮影。たくさんの恵みにあふれた、本当に素晴らしい巡礼でした。

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夕暮れどきのフーグリー川とハウラー駅。「今度は10年後とかじゃなくて、もっと早く来なさい」とシスター・プレマに言われたので、また何年かしたら巡礼団を組みたいとも思います。ただ、カルカッタは「呼ばれたときにしか行けない街」。すべては神様しだいです。

聖母の保護を願う祈り

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聖母の保護を願う祈り

 2020年3月11日、新型コロナウィルスの感染が拡大してゆく中、フランシスコ教皇様が聖母マリアに保護を願う祈りを捧げられました。私たちも、心を合わせて祈りたいと思います。聖母マリアのとりなしによって、すべての人の命が守られますように。 

おおマリアよ、あなたはいつもわたしたちの道を、

救いと希望のしるしとなって照らしてくださいます。

病者に健康をもたらす方、信仰を堅く保ち、

十字架の傍らでイエスと苦しみを共にされた方よ。

わたしたちはあなたに自分を委ねます。

ローマの民の救いであるあなたは、

わたしたちに必要なものを知り、

必ず与えてくださると確信しています。

ガリラヤのカナでの出来事のように、この試練の時を経て、

わたしたちを喜びと宴に連れ戻してくださるのです。

神の愛の母よ、父なる神のみ旨に適う者となり、

イエスのおっしゃった通り行動できるようお助けください。

イエスは、十字架を通して復活の喜びに導くため、

わたしたちの苦しみを身に受け、悲しみを担ってくださったのです。アーメン。

 

聖なる神のみ母よ、

あなたのもとにわたしたちは逃れます。

栄光に満ち、祝福された乙女よ、

試練の中にあるわたしたちの願いを退けず、

あらゆる危機から救い出してください。

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※カードはこちらからPDFでダウンロードできます(2L判)⇒

https://drive.google.com/file/d/1XkMbXksQsW7SgFzWvlEXrqpqtUt8mbv8/view

 

バイブル・エッセイ(897)喜びと力の泉

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喜びと力の泉

(そのとき、イエスは、)ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」その町の多くのサマリア人はイエスを信じた。そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」(ヨハネ4:5-15、19b-26、39a、40-42)

「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と、イエスはサマリアの女性に言いました。イエスと出会ってその言葉を信じるなら、わたしたちの心の中に、喜びと力がこんこんと湧き上がる命の泉が生まれる。その泉は、どんなことがあっても決して枯れることがないということでしょう。イエスと出会ってその言葉を信じるとき、わたしたちの心に、永遠に枯れることのない愛の泉、命の泉が湧き上がるのです。

 そんな泉を持っているに違いないと思える人に、ときどき出会うことがあります。例えば、先日カルカッタで久しぶり出会ったシスター・プレマです。マザー・テレサの三代目の後継者として「神の愛の宣教者会」の総長を務めている方ですが、彼女と会うといつも元気づけられます。なぜなら、彼女はいつも、とても明るい笑顔を浮かべているからです。「なぜ、こんな困難な状況のときにほほ笑むことができるのだろう」と、不思議に思うことさえあるほどです。彼女と出会うと、この人の中にはきっと、どんなときでも枯れることのない喜びと力の泉があるに違いない。そんな風に感じます。彼女から湧き出す喜びと力の水は、出会うすべての人の心に流れ込み、心を潤して生きる力を蘇らせてゆきます。皆さんの周りにも、きっとそんな人がいるでしょう。

 そのような人たちの中にある喜びと力の源泉、それは、どんなことがあっても決して揺るがない、神様の愛への確信だと思います。「神様はわたしのことを愛してくださっている。神様を信じてすべてを委ねていれば、何も心配することはない」という深い確信こそが、その人たちの心に深く掘られた井戸なのです。神様への信頼が深ければ深いほど、心の井戸は深くなってゆきます。そして、ある深さまで達したとき、その井戸は、もはや枯れることがない、永遠の命に至る水を湧き上がらせる井戸になるのです。

 では、どうしたら心の井戸を深く掘ることができるのでしょう。サマリアの女性のことを考えれば、そのヒントが見つかるはずです。サマリアの女性は、イエスが自分のすべてを知っていることに気づいたとき、イエスを信じました。サマリアの女性は、「この方は、すべてを知った上で、わたしを受け入れてくださった。こんなに弱くて罪深いわたしを、この方はゆるしてくださった」と感じたに違いありません。あるがままの自分をゆるされ、受け入れられたこの体験は、彼女の心に掘られた神様への深い信頼の井戸、信仰の井戸となりました。イエスの愛が、彼女の心に永遠の命に至る泉を湧き上がらせたのです。

 イエスと出会った町の人々は、口々に「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない」と女性に向かって言いました。イエスとの出会いを通して、この人たちすべての心に命の泉が湧き上がったのです。イエスは、弱くて罪深いわたしたちを、あるがままに受け入れてくださる方です。この四旬節に、わたしたちもそれぞれイエスとの出会いを深め、「神様は、これほどまでにわたしを愛してくださっている」という信頼の井戸を深く掘ることができるよう祈りましょう。

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フォト・ライブラリー(600)カルカッタ・ダージリン巡礼③カルカッタからダージリンへ

フォト・ライブラリー(600)カルカッタ・ダージリン巡礼③カルカッタからダージリンへ

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夕暮れどきのハウラー橋。聖なる大河ガンジスは、カルカッタ周辺ではフーグリー川と呼ばれています。

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川のほとりにある、ガートと呼ばれる沐浴場。インドらしい風景です。

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ガートの階段に干されたサリー。インドの着物は、色彩が豊かです。

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夕陽を浴びたハウラー駅。川船の船着き場と連結しています。

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たくさんの人たちを乗せたフェリー。街の中心部とハウラー駅を結んでいます。

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夕暮れどきの川面を行く舟。何を積んでいるのでしょう。

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川の向こうにハウラー駅のシルエットが浮かんでいます。東洋でも屈指の規模と言われる巨大な駅です。

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大河に沈んでゆく夕陽。インドの国旗のようなサフラン色です。

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インディゴエアーで、ダージリンの最寄りの空港、バグドグラに向かいます。ダージリンへ行くのは、なんと25年ぶりです。

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1881年、お茶や避暑客を運ぶために敷設された世界で最も古い登山鉄道の一つ、ダージリン・ヒマラヤ鉄道。世界遺産にも指定されています。

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まるで機関車トーマスのような、ダージリン・ヒマラヤ鉄道の機関車。おもちゃのようだという意味で、トイ・トレインの愛称で親しまれています。最も古い車両は、110年前からずっと使われているそうです。

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駅に着いたトイ・トレイン。運転手さんは、チャイを飲んで休憩です。

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燃え盛る石炭。水蒸気を噴き出し、煙をもくもくと上げながら、全身を震わせるようにして懸命に走ります。

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トイ・トレインと記念撮影。マザー・テレサは1946年9月10日、この列車でダージリンに向かう途中で神からのインスピレーションを受けたと言われています。

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トイ・トレインの車内。ナローゲージのため、乗客はぎゅうぎゅう詰めです。騒音と振動もかなりのもので、マザーはよくこの中で祈ったものだと感心します。(マザー自身は、「ダージリンへ向かう列車の中で」としか語っておらず、マザーがインスピレーションを受けたのは、カルカッタからニュー・ジャルパイグリに向かう途中の大きな列車の中だったではないかとする説も有力です。)

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列車の窓から。店の軒先をこするようにして進んでゆきます。

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窓からの風景。ヒマラヤを挟んでチベットと隣接しているため、チベット風の建物が目立ちます。

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ダージリン・ヒマラヤ鉄道屈指の名所、バタシア・ループ。鉄道の最高点にあるループ橋です。

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ダージリン駅に到着。ダージリンは、インドの人たちにとって一生に一度は行きたい憧れの場所だそうです。

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鉄道に沿って歩く人たち。頭で重さを支える、チベット独特の荷物の運び方をしています。

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チベット寺院の境内で出会った猫。なんとも無防備な姿です。

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1928~30年までの2年間、マザー・テレサがロレット修道会の修練女として過ごした修道院。マザーが住んでいた建物そのものは、取り壊されて学校の一部になっています。

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修道院に付属する教会。ダージリンの司教座聖堂でもあります。

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聖堂の中の聖母子像。マザーも、若き日にこの像の前で祈ったのかもしれません。

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街中にある「神の愛の宣教者会」のセンター。25年前はチベット難民の女性たちのお世話をしていましたが、現在は知的障害のある女性たちの世話をしているそうです。

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ダージリンと言えば、やはり茶畑。山の斜面の至るところに茶畑があります。農薬を使わない有機栽培です。

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ほのかな渋みと明るい色から「紅茶のシャンパン」と呼ばれるダージリンティー。高地の寒暖差が、独特の香りを生み出すそうです。

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ダージリンから見た、世界第3位の高峰カンチェンジュンガ。標高8586mは、エベレスト、K2に次ぐ高さです。(今回はぼんやりとしか見えなかったので、はっきり見えた25年前の写真を貼っておきます。)

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「偉大な雪の五つの宝庫」という意味の名を持つカンチェンジュンガ。山そのものが神と考えられ、登山者も山頂を踏むことは禁じられているそうです。あまりの荘厳さ、美しさに、初めて見たときは早朝から11時ころまでずっと見続けてしまいました。魂を奪われるという感じです。

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ヒマラヤを眺めながらヨガをする人たち。体と心によさそうです。