いまを大切に
死を恐れてばかりいては、
せっかく与えられた命を
十分生きることができません。
死を恐れるより、
生きているいまを大切にしましょう。
いつ死んでも悔いがないというくらい、
いまを精いっぱいに生きましょう。
『やさしさの贈り物~日々に寄り添う言葉366』(教文館刊)
※このカードはこちらからJPEGでダウンロードできます⇒
いまを大切に
死を恐れてばかりいては、
せっかく与えられた命を
十分生きることができません。
死を恐れるより、
生きているいまを大切にしましょう。
いつ死んでも悔いがないというくらい、
いまを精いっぱいに生きましょう。
『やさしさの贈り物~日々に寄り添う言葉366』(教文館刊)
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愛の報い
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」(マタイ25:31-46)
天国に選ばれた人たちに向かって、イエスが、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」と選ばれた理由を語る場面が読まれました。つまり、彼らが知らずに食べものを上げた人、服を着せてあげた人、お見舞いしてあげた人一人ひとりの中に、キリストがいた。そのような「最も小さい者」の一人ひとりがキリストだったということです。
この話はきっと、多くの人たちにとって慰めになるでしょう。子育てや介護などをしている人から、ときどき、「わたしがこんなにやっているのに、相手はちっとも感謝してくれない。周りの人たちも、わたしがやるのを当たり前のように思っている」という愚痴を聞くことがありますが、この話の通りであるとするなら、その人たちがしていることは必ず最後に報われます。なぜなら、その人たちがしていることはすべてイエスにしていることだからです。世の終わりが来たとき、イエスはその人たちに向かって、「あなたがあのとき服を着せて上げた子ども、トイレの世話をしてあげたお年寄り、あれはすべてわたしだったんだよ。ありがとう」といってくださるでしょう。そして、その人たちは、イエスと共に天国で永遠の喜びと安らぎを味わうことができるのです。
「そんな先に報われたとしても仕方がない。いま報われなければ意味がない」と思う人もいるかもしれません。しかし、子どもや高齢者、困っている人たちに奉仕することには、本当に報いがないのでしょうか。確かに、相手が感謝してくれたり、周りの人たちがいたわってくれたりすることはないかしもれません。しかし、報いというのはそれだけではないと思います。困っている誰かを助けてあげることができたとき、心に生まれる喜び。誰かのために自分を差し出した愛の喜びこそ、わたしたちがする行いの何よりの報いなのです。その喜びの中にイエスがいるといってもいいかもしれません。
逆に考えてみてもいいでしょう。もし「それならもうやってられない」といって、子どもや高齢者の世話を止めてしまったら、そのとき、わたしたちの心に何が起こるでしょうか。きっと、困っているその人たちのことを思って、心が痛み始めるに違いありません。たとえ感謝してくれなかったとしても、その人たちは、自分にとって大切な存在。「こんなわたしを、頼りにしてくれる」存在だからです。その人たちを見捨てるとき、わたしたちの心に生まれる痛み、それはイエスから切り離された痛み、愛を見失った痛みだといってよいでしょう。
「なんで、わたしがこんなことをしなければならないんだ。馬鹿々々しくてやってられない」、そんな風に思ったとき、目の前にいる相手の中に、その人を助けるとき生まれる愛の中に、イエスがいるのだということを思い出せるように。「最も小さい者」を助けるときに生まれる愛の喜びの中に、天国があるのだということを思い出せるように、心を合わせてお祈りしましょう。
※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞお役立てください。
心を満たすもの
どんなに小さな恵みでも、
大きな感謝で受け取れば、
それで心は満たされます。
どんなに大きな恵みでも、
小さな感謝しかなければ、
心は決して満たされません。
心を満たすのは、恵み自体ではなく、
恵みを受け取ったとき
心に生まれる感謝なのです。
『やさしさの贈り物~日々に寄り添う言葉366』(教文館刊)
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「天の国」の喜び
「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』」(マタイ25:14-15、19-21)
預かった5タラントンから、他に5タラントンをもうけたしもべに向かって、主人が「お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」といったという話が読まれました。5タラントンというのは、現代の感覚では、数千万円から数億円ということですから、決して「少し」ではないのですが、この主人は、きっと想像もつかないほど大きな財産を持っていたのでしょう。
少しのものに忠実な人に、より多くのものを管理させるというのは、わたしたちの周りでもよくあることでしょう。少しのものもおろそかにせず、忠実に管理する人は、信頼できる人だと考えられるからです。神父を例にしていうならば、信徒数の少ない小教区をきちんと世話できる神父は、信頼できる神父だ。だから、もっと信徒数の大きな小教区を任そう、というようなことになるでしょう。イエスがいっていることは、世間一般の常識にもかなったことなのです。
しかし、忘れてはいけないのは、この話は世間一般の話ではなく、「天の国」のたとえ話だということです。この地上で、頑張った分の報いが与えられるというような話ではないのです。もし世間一般の話だとすれば、わたしのように欲深い神父は、「いまはこんな人数の少ない小教区だが、我慢してしっかりやれば、もっと人数の多い小教区をまかせてもらえるかもしれない」というような気持ちになるかもしれません。はたしてそれで「天の国」に入れるでしょうか。そのように自分のことしか考えていない人が、「天の国」にすんなり入れるとは思えません。
では、この話はどのように理解したらよいのでしょう。主人から預かった「少しのもの」を、わたしたちの人生そのものだと考えてみてはどうでしょうか。わたしたちが、この世界で生きているあいだに神さまからいただくお恵みと考えてもいいでしょう。神さまから預かったこの命を惜しみなく使い、この世界に神さまの愛をどんどん広げていく。それが、「他に5タラントンもうける」ということになるでしょう。神さまからいただいたお恵みは、みんなと分かち合うことでどんどん大きくなっていくのです。神父の例でいえば、自分にまかせられた小教区ではなく、神父として生きられること自体を神さまからのお恵みと考え、そのお恵みを信徒たちと分かちあうということになるでしょう。そうすることで、その神父は、この地上で頂く恵みよりもはるかに大きな「天の国」の恵みをいただくことができるのです。この地上にいるうちから、自分の教会で、「天の国」の喜びを味わうことができるといってもいいでしょう。
神さまの前で忠実であるとは、神さまからいただいた恵みを、みんなと惜しみなく分かちあうことに他なりません。恵みを惜しみなく分ちあう人に、神さまは、想像もつかないほど大きな「天の国」の喜びを与えてくださるのです。この地上で与えられた「少しのもの」に忠実であることによって、「天の国」の喜びに入ることができるよう、心を合わせて祈りましょう。
※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞお役立てください。
聞くのは自分
相手を傷つける言葉は、
まず自分自身の心を傷つけます。
相手をいたわる優しい言葉は、
まず自分自身の心を温めます。
どんな言葉も、最初に聞くのは自分自身。
相手のためにも自分のためにも、
よい言葉を選んで話すことができますように。
『やさしさの贈り物~日々に寄り添う言葉366』(教文館刊)
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心に愛の火をともす
「天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」(マタイ25:1-13)
「ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった」愚かなおとめたちは、婚宴の席に着くことができなかった、とイエスはいいます。だから、賢いおとめたちのように、花婿が遅くなっても大丈夫なくらいの油を備えておきなさいということでしょう。これが「天の国」のたとえ話だとすると、ともし火とか油というのは、いったい何のことなのでしょう。
花婿がイエス・キリストであるとすれば、ともし火というのはきっと、イエスへの愛の火のことでしょう。イエスがいつきても、愛の火を燃やして迎えることができるように、心から歓迎できるようにということです。では、ともし火を燃やすための油とは何でしょう。それはきっと、イエスへの信頼だろうと思います。もし信頼という油がなければ、いくら待ってもイエスが来ないとき、「どうせもうこないんだ」と思ってあきらめ、愛の火を消してしまうかもしれません。しかし、信頼という油があれば、「きっとわたしにわからない事情があって遅れているだけだろう。大丈夫、きっとくる」と信じて、愛の火を燃やし続けることができるでしょう。イエスへの愛の火を燃やし続けるためには、イエスへの信頼が必要なのです。
日々の生活のさまざまな場面で、イエスへの信頼が問われていると思います。たとえば、病気で体が動かなくなったとき、イエスへの信頼がなければ、「なぜ、わたしだけこんな目にあうんだ。わたしは神に見捨てられた」と思って、イエスへの愛を失ってしまうかもしれません。そうなれば、もし誰かがお見舞いに来てくれたとしても、「放っておいてくれ。どうせわたしなんか」というような態度で拒絶してしまうことになりかねません。お見舞いに来てくれたその人こそイエスなのに、せっかく来てくれたイエスを拒んでしまうということが起こりうるのです。
イエスへの信頼があれば、そんなことにはなりません。もし病気で体が動かなくなっても、「イエスはわたしのことを決して見捨てない。必ず助けにきてくださる」と信じて、イエスへの愛の火を燃やし続けることができるのです。心の中に愛の火が燃えいれば、来てくださったイエスを見逃すことはありません。誰かがお見舞いに来てくれたなら、その人を大喜びで歓迎し、その人の中にいるイエスもあたたかく迎え入れることができるのです。
イエスへの信頼を、信仰といい換えてもよいでしょう。花婿であるイエスをお迎えするためには、どんなときでも決してあきらめない信仰の油、信じて待ち続けることができる信仰の油が必要なのです。賢いおとめが、愚かなおとめに油を分けてあげることができなかったように、この油は、人から譲ってもらうことはできません。日々の生活の中で、日々の祈りの中で、信仰の油をしっかり蓄えることができるように、どんなときでも心に愛の火をともして待つことができるように、心を合わせてお祈りしましょう。
※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞお役立てください。
短い鉛筆
優れた画家は、
汚れた短い鉛筆を使ってでも、
美しい絵を描きあげます。
「自分は罪深く、取るに足りない人間だ」
と思っても、あきらめる必要はありません。
神さまは、そんなわたしたちを使ってさえ、
何か美しいものを
作り出すことができるのです。
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