神の導き
民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。(ルカ3:15-16、21-22)
イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受け、祈っておられると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたとルカ福音書は記しています。この声を聞いた後、イエスは「神の子」としての自分の使命に目覚め、福音宣教を開始しました。この一言が、イエスの生涯を決定したといってもよいでしょう。
「主の洗礼」という出来事を考えるとき、そもそも、なぜイエスがヨハネから洗礼を受ける必要があったのかという疑問があります。ナザレの村で大工をしていた30歳の青年イエスは、なぜ、当時、預言者として評判だったヨハネのもとに出かけたのでしょうか。それはおそらく、青年イエスの心の中に、「自分はこのまま大工をしていていいのだろうか。何か別に使命があるような気がする」という思いが強く湧き上がったからだろうと思います。それが何なのかを確かめるために、イエスはヨハネのもとを訪ねた。わたしはそんな風に想像しています。
わたし自身も、若い頃に似たような体験をしたことがあります。大学3年生のときのことです。当時、わたしは弁護士になろうと思って、日々、法律の勉強に励んでいたのですが、大学3年生の秋に父が突然、心筋梗塞で帰天してしまいました。葬儀などが済んでぼーっとしていたとき、わたしの心の中に、「自分の人生はこのままでいいのだろうか。もっと他にすることがあるのではないか」という思いが湧き上がってきました。父の突然の死を前にして、自分の人生の意味をもう一度問い直さざるを得なかったと言ってもいいかもしれません。その思いがどんどん強くなったので、わたしはしばらく、自分の人生について考え直してみることにしました。その中でたまたま出会ったキリスト教の本に導かれ、やがて、その本を書いた神父さんから洗礼を受けることになったのです。
しかし、すぐに人生の道が示されることはありませんでした。そのあとわたしは、「神の愛」についてもっと実感を持って知りたい、「すべての人がかけがえのない神さまの子ども」と頭で理解するだけでなく、「わたし自身も、かけがえのない神さまの子どもなのだ」と心の底から信じたいと願い、そのための手掛かりを求めてインドのマザー・テレサのもとに出かけたのです。1年に及ぶインドでの体験や、帰国後の「霊操」の体験の中で、しだいに「わたしも、神さまから愛されたかけがえのない存在なのだ」という確信、あるいは信仰と言ってもいいかもしれませんが、そのような思いがようやく芽生え始めました。そのとき、わたしの前に司祭への道が開かれたのです。
青年イエスの体験は、もしかすると、多くの青年に当てはまることなのかもしれません。「このままでいいのだろうか」という強い思いによって神さまに導かれて道を探し求め、探し求める中で自分も「神の子」なのだと確信できたとき、「神の子」としての自分の使命が示されるということです。このような導きは、どんな年齢でも起こりうることだと思います。神さまの愛の中で、わたしたちが、それぞれに「神の子」としての自分の使命に気づくことができるよう祈りましょう。
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