バイブル・エッセイ(883)心の扉を開く

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心の扉を開く

 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」(マタイ3:1-6)

「悔い改めよ」「主の道筋を整え、その道筋をまっすぐにせよ」という洗礼者ヨハネの声が、荒れ野に響いています。「主の道筋」とは、イエスがわたしたちの心に入ってくるための道。その道は、悔い改めによってのみ整えることができるのです。

 わたしたちの心は、思い上がりや劣等感など、さまざまなでこぼこがあって歩きにくい道です。ですが、イエスはそのようなでこぼこを乗り越えることができます。イエスが一番困るのは、心の扉が完全に閉ざされているとき。わたしたちが、「こんなわたしが、救われるはずがない」と思い込み、絶望の闇の中に閉じこもってしまっているときでしょう。諦めてしまってイエスの顔を見ようともしない、その声に耳を傾けようともしないということでは、イエスでさえどうにもすることはできません。「今年こそ変われるかもしれない」「いまこそ、わたしの人生の大きな節目の時かもしれない」と心の底から信じ、イエスに向かって心を開くこと。それこそ、主の道を整えるにあたって、まずすべきことでしょう。

 今年、イエス様はわたしたちにとても分かりやすい姿でやって来られました。この地上における「キリストの代理者」であるフランシスコ教皇を通して、わたしたちはイエスの言葉に触れたのです。わたしたちは、教皇が運んでくださった喜びのメッセージ、キリストの愛をしっかり受け止められたでしょうか。「ビバ、パパ」と叫んで大騒ぎはするけれど、言葉はまったく聞いていない。記念グッズは集めたけれど、教皇の言葉は何も心に残っていない。それでは、何の意味もありません。教皇は、わたしたちの心にキリストの言葉を届けるために、愛のメッセージを届けるためにこそ来たのです。大切なのは、心を開いてそのメッセージをしっかり受け止めることです。

 中には、「教皇の言葉は素晴らしいけれど、難しすぎてよくわからない。わたしにはとてもではないが実行できない」などと考えて、はじめから教皇の言葉に耳を傾けない人もいるかもしれません。それは、教皇が連れてきた下さったイエスを、門前払いにするのと同じです。たとえば、教皇は東京ドームのミサで次のようにおっしゃいました。

「障がいのある人や体力の衰えた人は、愛するに値しないのですか。外国人や、間違いを犯した人、病気の人、刑務所にいる人、その人たちは愛するに値しないのですか。」

 これはまさに、預言者の言葉だと思います。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたのである」とイエスはおっしゃいました。そのような人たちの中にこそイエスがいる。そのような人たちの中にいて、わたしたちが心を開くのを待っている。心を開くとき、わたしたちの心にイエス・キリストが訪れる。教皇はそのようにおっしゃっているのだと思います。

 今年の待降節は、教皇様が運んでこられたキリストの言葉を受け止めることによって「主の道筋を整え」、まっすぐにしてゆきたいと思います。「また今年もか」と思って諦めることがないように、変わりたいという思い、変われるかもしれないという希望を持ち続けられるように、共に祈りましょう。

バイブル・エッセイ(882)目を開く

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目を開く

 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(マタイ24:34-44)

 飲んだり食べたり、日々の仕事に追われたりするうちに、神さまのことをすっかり忘れてしまうわたしたちに、イエスは「目を覚ましていなさい」と語りかけています。どんなときでも神さまの愛を忘れないようにしなさい。目を開いて、神さまの愛の光の中を歩みなさいというのです。

 フランシスコ教皇は、使徒的勧告『福音の喜び』の中で、現代社会の最大の危機は、人間の心に生まれる虚しさだと指摘しています。神さまと交わりを断ち切り、隣人との間に壁を作り、自分の中に閉じこもるときわたしたちの心に生まれる虚しさ。それこそが、諸悪の根源だというのです。このような虚しさが生まれるとき、わたしたちは欲望を満たすことによってそれを埋めようとします。ですが、どんなに食べても、どんなに飲んでも、どんなに森を切り倒して大きな家を建てても、戦争で領土を拡大しても、それで人間の心が満たされることはありません。この虚しさは、際限なくすべてを呑み込んでしまうブラックホールのようなものなのです。この虚しさを、闇と呼んでもいいでしょう。自分のことばかり考え、神様にも隣人にも目を閉ざすとき、わたしたちの心に闇が生まれるのです。

 この闇に対抗するための唯一の方法が、「目を開く」ことです。自分のことばかり考えるのをやめ、神様に向かって目を開く、苦しんでいる隣人たちに向かって目を開くとき、わたしたちの心に愛の光が射しこみます。愛の光が射しこむとき、闇は消え去り、心はすみずみまで喜びで満たされるでしょう。それこそ、わたしたちの救いなのです。「目を開く」とは、救われることだと言ってもいいでしょう。目を開きさえすれば、神の愛に目を向け、隣人に心を開きさえすれば、わたしたちは救われるのです。

 「神さまなんか気にしていたら、自分の人生を楽しめない」「隣人のために自分の時間を使ってしまうなんてもったいない」、そのように考えて、わたしたちは闇の中に落ち込んでゆきます。どうもわたしたちは、目を覚ましているようでいて、何も見えていないことが多いようです。自分の思いを放棄して、神さまの思いのままに生きるときにこそ、わたしたちは一番自分らしく生きられる。隣人のために時間を無駄にするときにこそ、わたしたちは実は、一番有効に時間を活用している。目を開いてそのことに気づかない限り、わたしたちはいつまでたっても闇の中をさまよい続ける他ないでしょう。

 今回の来日中も、教皇様は繰り返しこのことを訴えられました。生産性のみに注目し、効率優先で進んでゆく世界は、人間の心に虚しさを生み、その虚しさは結果として世界を滅ぼすのです。どんなときでも、神さまの愛に目を開いていることができるよう、いつも喜びの光の中を歩んで行けるよう、共に心を合わせて祈りましょう。

 

 

バイブル・エッセイ(881)楽園に入る

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楽園に入る

 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ23:39-43)

 一緒に十字架につけられた強盗の一人に向かって、イエスは「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言いました。これは、ちょっと疑問符がつく言葉です。もし「楽園にいる」というのが復活の意味なら今日ではなく3日後、昇天の意味ならまだ大分かかることになるでしょう。イエスはここで、死後の天国ということより、むしろ今この人に救いが訪れたということを言いたいのではないでしょうか。神への恐れを取り戻し、自分の罪深さを認めてキリストに助けを願うとき、キリストともに十字架に付けられるとき、わたしたちはキリストと共に「楽園にいる」のです。

 イエスを罵る強盗をたしなめようとして、この強盗は「お前は神をも恐れないのか」と言いました。「神を恐れる」とは、怖がるということより、むしろ畏れ敬うということでしょう。神への恐れを失うとき、人間は自分自身を神として、自分の欲望の赴くままに行動するようになります。「神なんか知るか、自分さえよければいいんだ」「ばれなきゃ、何をしてもいいんだ」ということです。自分の欲望を満たすため、自分の利益のために周りの人を欺き、陥れ、傷つけたとしても、まったく意に介さず、次々と罪を重ねてゆく。神への恐れを失うとき、わたしたちは、そのようにして罪の深みに落ちるのです。

 神を恐れて生きることこそ、信仰生活の第一歩であり、わたしたちに求められていることのほとんどすべてだと言っていいでしょう。神を恐れるとは、自分が神の前では取るに足りない罪人であると知ること。そんな自分でさえ愛してくださる神に感謝し、神を悲しませるようなことはもう二度とすまいと決意すること。どんなときでも、自分の思いより、神のみ旨を優先して生きることだからです。自分の罪深さに気づき、神への恐れを取り戻すとき、わたしたちは神の子としての本来の姿に戻り、神の愛に包まれます。神への恐れを取り戻すとき、わたしたちは楽園に戻るのです。

 イエスと共にいるならば、十字架の上でさえ楽園になる。これも大きな希望だと思います。どんな苦しみの中にあったとしても、神への恐れを忘れず、神に祈っている限り、わたしたちは決して一人ではありません。イエスがわたしたちの隣にいて、わたしたちと共に苦しみを担って下さっているのです。「なぜわたしだけこんな目にあうのですか」、苦しいときにわたしたちはついそう叫んでしまいます。ですが、わたしたちだけではないのです。わたしたちが苦しむとき、わたしたちの隣にはいつもイエスがいて、わたしたちと一緒に苦しんでくださっているのです。

 イエスがいつくしみ深くわたしたちを見つめるとき、そのまなざしの中で、わたしたちの苦しみは喜びに変わってゆきます。苦しみが、イエスとわたしたちを結ぶ絆となるのです。イエスが共にいてくださるとき、十字架の上でさえ楽園になります。神を恐れ敬い、神のみ旨のままに、イエスと共に生きられるよう祈りましょう。

バイブル・エッセイ(881)命をかち取る

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命をかち取る

 ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(ルカ21:5-19)

 これまでに積み上げてきたものがすべて崩されるばかりか、人々から裏切られ、罵られるときが必ずやって来る。だが、神は決してあなたたちを見捨てない。「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」、とイエスは言います。最後まで諦めず、神から与えられた命を精いっぱい生き抜きなさいということでしょう。

 天地が揺れ動き、疫病や大戦が命を脅かす。わたしたちが生きている間に、そのような終末がやって来る可能性は低いでしょう。ですが、わたしたち一人ひとりに、確実にやって来る終末があります。それは肉体の死です。歳を取るにつれて、わたしたちの体は少しずつ衰えてゆきます。磨き上げてきた能力や、積み上げてきた体験なども、少しずつ失われ、崩れてゆくのです。何かができること、何かを持っていることを誇るなら、それらは老いと死によってすべて奪い去られることを覚悟しておかなければなりません。

 裏切りや迫害も、やってくるかもしれません。元気で力があった頃には集まってきた人たちが、老いて力を失ったり、病気に倒れたりすれば、もう姿を見せなくなる。もの忘れや勘違いがひどくなってくれば、家族からさえ、「またおじいちゃんがこんなことして」などと見下されたり、罵られたりする。邪魔者扱いされ、「早く死ねばいいのに」とさえ言われる。投獄されることはないにしても、施設などに預けられてしまう。残念ながら、そんなことは起こりがちなのです。

 そう考えると、老いること、死ぬことが恐ろしくなってきます。ですが、どんな迫害が起こったとしても、何も心配する必要はないとイエスは言います。そのときになれば、必要な知恵と言葉が必ず与えられるというのです。物忘れがひどくなってくればなってきたで、そのことを安らかな気持で受け入れ、幸せに暮らしてゆく方法はあるし、病気で体が動かなくなればなったで、幸せに暮らしてゆく方法はあります。そのときにすべきこと、家族や友人、周りの人たちに語るべき言葉は、そのときになれば神様が教えてくださる。いまから心配する必要はない。イエスの言葉は、わたしたちにそう語りかけているようです。

 大切なのは、忍耐ということだと思います。体が衰え、若さを失ったとしても、決して悲観しない。これまで出来たことができなくなったとしても、自分に対して苛立たたない。人から見下されたとしても、決して腹を立てない。何があっても神様はわたしを見捨てることがないと固く信じ、神様の愛に包まれて、いつも心に希望の火を燃やし続けている。自暴自棄にならず、この地上で自分に与えられた使命を、最後の瞬間まで果たしぬく。それが、忍耐するということであり、「命をかち取る」ということだとわたしは思います。最後まで自分の命を生き抜いた人に、神は永遠の命を与えてくださるのです。「忍耐によって命をかち取る」ことができるよう、心を合わせて祈りましょう。

バイブル・エッセイ(880)愛の完成

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愛の完成

「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」(ルカ20:34-38)

 死者の復活を説くイエスに、サドカイ派の人々が鋭い質問を浴びせます。死別と再婚を繰り返した人たちは、復活した後、どのような関係になるのかと言うのです。イエスは、復活した人たちは「めとることも嫁ぐこともない」「天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」と答えます。一体どういうことでしょう。復活のときには、夫婦や家族の絆は消えてしまうのでしょうか。

 互いが自分のすべてを相手のために差し出し合い、互いをあるがままに受け入れ合う婚姻の絆は、この地上で、三位一体の神のうちに結ばれる愛の絆に最も近いものだと考えられてます。結婚は本質的によいものであり、人間を愛の完成に近づけるものであって、復活のときに消されてしまうような余分なものではないのです。ですから、婚姻の絆が消えるのではなく、その絆がさらに高い段階へと移ってゆくと考えたらいいでしょう。

 婚姻の絆はすばらしいものですが、一つの矛盾を抱えています。神が望んでおられるのは、わたしたちが皆、互いを兄弟姉妹として受け入れ合い、無償の愛によって互いを支え合うことです。ですが、人間にはどうしても嫉妬心というものがあります。自分が愛している人が、他の人との間に深い愛の絆を結んだ場合、それを黙ってみていることができないのです。結果として、この地上では、すべての人が互いに完全な愛で結ばれるということは困難になります。

 天国では、この嫉妬という感情がなくなると考えたらいいでしょう。神さまと直接向かい合い、その愛で心を豊かに満たされるとき、わたしたちの心からは嫉妬心が消えるのです。復活した人は、自分が深く愛している人が、他の人とも深い愛で結ばれるのを見たとき、それをまるで自分自身のことであるかのように喜ぶことができます。そのことによって、その人と自分とのあいだにある愛の絆が脅かされるのではないかなどとは、まったく思いません。二人の間に結ばれた愛の絆は完全なものであり、何があっても消えることはないと確信しているからです。

 こうして、天国でわたしたちはみな兄弟姉妹として固い愛の絆で結ばれ、天使たちのように、手を携えて神を賛美することになるのです。それでは物足りないと思う人もいるかもしれませんが、相手を独占することから生まれる満足感は、神さまの愛の中では何の意味も持たなくなるので、実際にはきっと何の問題も感じないはずです。その世界では、他の人の喜びは、そのまま自分の喜びになるのです。

 このような交わりは、地上で実現するのは困難です。ですが、理想がここにあることは忘れないようにしたいと思います。嫉妬心を捨て、互いの喜びを自分の喜びとして感じられるような交わり、真実の愛の交わりを実現してゆくことができるよう祈りましょう。

バイブル・エッセイ(879)救いの地平

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救いの地平

 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ19:1-10)

 いちじく桑の上から人々を見下ろしているザアカイに向かって、イエスは「急いで降りて来なさい」と語りかけました。「降りてきなさい」というのは象徴的な言葉です。ザアカイはこれまで、徴税人として、金持ちとして人々を高い所から見下ろすような生き方をしてきたのかもしれません。そしていまも、木の上から人々を見下ろしている。その高い所から降りてきなさい。イエスはザアカイにそう呼びかけているようにも思えます。

 先日行われたアマゾン住民のためのシノドス(代表司教会議)の席で、フランシスコ教皇が出席者を注意する場面がありました。アマゾン住民の代表者たちが、鳥の羽で作った彼らの帽子をかぶって議場に現れたときのことです。教皇は、その帽子を見て出席者の何人かが笑っているのに気づきました。教皇は深く心を痛め、挨拶の中で次のように言ったそうです。「あなたたちが被っている帽子と、この人たちの帽子のどこが違うのですか」

 フランシスコ教皇は、いつも人々と同じ高さに立ち、人々と共に苦しみを共有し、人々共に祈ることを心掛けて生きて来られた方です。教皇にとって、自分たちと違った文化を生きる人たちを見下し、笑うということは、きっと耐え難いことだったに違いありません。そのような態度を捨てない限り、教会に未来はない。教皇は、きっとそう思われたに違いありません。

 わたしたちの心の中にも、自分と違った文化、違った考え方、違った生き方を見下す部分がないか、注意深く見つめ直す必要があるかもしれません。キリスト教の方が優れている、ヨーロッパの洗練された文化に近い自分たちの文化の方が優れている、そのような態度を取っている限り、わたしたちはいつまで立っても周りの人たちと同じ高さに立つことができません。同じ高さに立って、対等に話し合うことができないのです。

 対等に話し合うことができないということは、つまり相手との間に真実の関係を結ぶことが出ないということです。相手に共感し、相手の苦しみや痛みを自分自身のこととして担い、一緒に涙を流しながら神に助けを願う。そのような真実の関係を結ぶことができないのです。相手とのあいだに、愛の絆を結ぶことができないと言ってもいいでしょう。それでは、いつまでたっても神の愛を伝えることはできないし、自分自身も神の愛に触れることがでません。神は、わたしたちが互いに愛し合うとき、わたしたちのあいだにおられる方だからです。

 高い所から降りて来ようとしないザアカイに、イエスは「ぜひ、あなたの家に泊まりたい」と声をかけました。ザアカイとの間に、まったく対等な交わりを結ぼうとしたのです。この言葉を聞き、木から降りる決断をしたとき、ザアカイに救いが訪れました。イエスとの間に結ばれた確かな愛の絆が、ザアカイを救ったのです。イエスはいつでも、苦しんでいる人びとと共におられます。イエスがおられる高さにまで降り、そこで救いとであうことができるように祈りましょう。

 

バイブル・エッセイ(878)本当によい行い

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本当によい行い

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ18:9-14)

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」とイエスは言います。「高ぶる」とは、他の人と自分を比べて、自分がより優れた者だと思い込むこと。「へりくだる」とは、自分の弱さ、小ささを認め、神様の前に跪くことだと言っていいでしょう。高ぶる人は、いずれ自分の限界や弱さを知って打ち砕かれ、へりくだる人は、神様の恵みに満たされ、天の高みにまで挙げられるのです。

 このたとえ話の金持ちの最大の問題点は、行いによって思い上がり、自分が特別に優れた人間だと思い込んでしまったことでしょう。自分はよい行いをしている、だからよい人間だ。そう思い込んでしまっているのです。ここに、よい行いの大きな落とし穴があるように思います。わたしたちはよい行いをすべきなのですが、もしそれを誇るようになれば、その瞬間にそのよい行いは、もはやよい行いでなくなってしまうのです。

 そもそも、人間にとってよい行いとは何でしょうか。それは、究極的には神様を愛すること。神様が造られたすべてのものを愛することだと言っていいでしょう。人間は愛するために造られたので、愛するときにだけ本来の姿となり、よいものになるのです。愛することの基本は、相手のために自分を差し出すことにあります。「神様、わたしは弱くて、不完全な人間にすぎませんが、このわたしをあなたにお捧げします」と祈り、神様の愛に満たされて自分を人々に差し出す。それこそが、愛する人の姿なのです。

 この金持ちがしていることは、そのまったく逆です。「神様、わたしは特別に優れた人間です。ご褒美をください」とでもいうような態度の中には、愛がまったくないのです。この金持ちは、周りの人たちに自分を差し出すどころか、周りの人たちを見下し、自己満足の道具とさえしています。もしかすると、最初は愛から始めた行いだったのかもしれません。ですが、思い上がって愛が消えた瞬間、その行いは愛の行いではなくなり、よい行いでもなくなってしまったのです。結果として、この金持ちは神様の前でよいものとされること、「義とされる」ことがありませんでした。

 神様の前で自分を誇れるほど完全な人間、強い人間など誰もいません。「こんなわたしですが、どうぞあなたのみ旨のままに、あなたのため、あなたの愛する人々のためにお使いください」と真摯に祈るとき、神様はわたしたちに愛を注ぎ、わたしたちの心を力で満たしてくださいます。心を満たした愛に突き動かされ、苦しんでいる人に手を差し伸べるとき、神様の愛を一人でも多くの人に伝えたいと出かけて行くときにだけ、わたしたちの行いは神様の目に「よいもの」とされるのです。あらゆるよい行いは、「自分にはよい行いなどする力はありません」と認め、神様に助けを願うところから始まると言ってもよいのではないかと思います。

「罪びとであるわたしと主の関係、これこそ救いの生命線です」と教皇フランシスコは言います。思い上がって自分を誇り、神様に背を向けるとき、わたしたちは愛から切り離され、自ら滅びへの道をたどるのです。謙虚な心で神様と結ばれ、よい行いに励むことができるよう祈りましょう。