
愛の色
悪意に対して悪意を返せば、
相手の悪意に染められてしまいます。
心の色をにごらせないために、
悪意はさっと受け流すのが一番。
喜びや感謝、
やさしさやぬくもりで心を満たし、
心を美しい愛の色に
染めることができますように。
『悲しみの向こう~希望の扉を開く言葉366』(教文館刊)
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A3 道しるべ342「愛の色」A3.JPG - Google ドライブ
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愛の色
悪意に対して悪意を返せば、
相手の悪意に染められてしまいます。
心の色をにごらせないために、
悪意はさっと受け流すのが一番。
喜びや感謝、
やさしさやぬくもりで心を満たし、
心を美しい愛の色に
染めることができますように。
『悲しみの向こう~希望の扉を開く言葉366』(教文館刊)
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命を惜しめば命を失う
ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マタイ22:15-21)
「言葉じりをとらえて、罠にかけよう」とするファリサイ派の人々に、イエスが、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答える場面が読まれました。このイエスの答えは、「人間のものは人間に、神のものは神に返しなさい」と読み替えることで、税金以外にも当てはまるでしょう。人間のものは喜んで人間に返し、神のものは神に喜んで返して、何ものにもしがみつかない。それこそ、イエスが示すわたしたちの人生の原則なのです。
では、「人間のもの」「神のもの」とは何でしょう。「人間のもの」とは、人間が作ったもの、人間が価値を生み出しているものと考えたらよいでしょう。たとえば、世間での評判がそうです。「人からどう思われるか」を気にして、人気が出れば喜び、人気を失えば悲しむ。それが普通だと思いますが、イエスの原則に従えば、たとえ人気を失っても悲しむ必要はないことになります。人気というのは人間が作りだしたもの。たとえ取り去られても、それは持ち主に返しただけのことなのです。むしろ、一時だけでも与えられたことを感謝し、取り去られるときには喜んで返す。それで十分だと思います。世間での評判だけでなく、財産や地位などについても、同じことが言えるでしょう。人間から受け取ったものは、人間に返せばいいのです。
では、「神のもの」とは何でしょう。それは、神さまが作ったもの。わたしたちの命、わたしたちの人生のことだと思います。神さまからお預かりした命を、神さまのために使う。神さまから与えられた「使命」を果たす。それが、わたしたちに与えられた役割なのです。そのことによってのみ、わたしたちは幸せに生きられる。自分の命を惜しめば、かえって不幸になり、自分の身を滅ぼすことになる。そう言ってもいいでしょょう。
たとえば、わたしの使命は神父としてみなさんのために働くことですが、ときどき「命が惜しくなる」こと、さぼりたいと思うことがあります。「ここまでしなくてもいいだろう。適当なところで誤魔化しておけばいい」という悪魔のささやきが聞こえてくることがあるのです。このささやきに、全面的に乗ってしまったらどうなるでしょう。確かに、仕事は楽になり、休む時間は増えるでしょう。しかし、次第に、自分が生きている意味が分からなくなってくるはずです。生きている意味を見失えば、生活が乱れ、健康を損ないという悪循環が始まります。「命を惜しんだ」結果として、自分の使命を見失い、滅んでいくというのは、そういうことなのです。
何より大切なのは、神さまから頂いたものを、毎日、きちんと神さまにお返しすること。神さまから与えられた使命を精いっぱいに果たすことだと思います。人間から与えられるもの、世間の評価や財産、地位などに左右されて使命を怠るなら、結局、「命を惜しんで」命を失うことになりかねません。「人間からのものは人間へ。神からのものは神へ」の原則をしっかり守れるよう、心を合わせてお祈りしましょう。
※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞお役立てください。

道は見つかる
人間は、どんな風にしても
生きてゆけるもの。
「もうどうにもならない」と思ったなら、
それは、自分が自分を
「こうでなければならない」という
思い込みの中に
閉じ込めてしまっただけ。
思い込みの壁を壊せば、
道はいくらでも見つかるでしょう。
『悲しみの向こう~希望の扉を開く言葉366』(教文館刊)
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天国への招きを断る
「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。」(マタイ22:1-10)
王子の婚宴に招いたのに、「人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった」というたとえ話が読まれました。これは「天の国」のたとえ話ですから、天国に招かれたのに、それを断る人たちの話ということになります。せっかく天国に招かれたのに、それを断ってしまう。そんなことがあるのでしょうか。
実は、天国を自分から拒む話は、聖書の中にたびたび出てきます。たとえば、「放蕩息子のたとえ話」です。農園の主人の2人の息子の話ですが、放蕩で財産を使い果たした挙句に帰ってきた弟を、父親が歓迎して祝宴を開いたとき、お兄さんは、その祝宴に入ろうとしませんでした。父親が弟を寛大にゆるしたこと、弟のために祝宴を開いたことがゆるせなかったのです。この祝宴が天国の祝宴だとすれば、お兄さんは自分から天国に入るのを拒んだと言っていいでしょう。最後にぶどう園に来た農夫に、主人が寛大に賃金を支払うたとえ話でも同じです。朝から働いていた人たちは、夕方だけ働いた人たちが自分と同じ賃金をもらったことに腹を立て、主人に苦情を言いました。これも、賃金が「天国の喜び」だとすると、主人の寛大さに腹を立て、天国に入るのを断った話ということになります。
これは、わたしたちにも起こりうることだと思います。わたしたちは、自分自身がゆるされるときには大喜びしますが、誰かが自分と同じように寛大にゆるされると、「なんであんな奴までゆるされるんだ。厳しく罰するべきなのに」と考えてしまいがちなのです。特に、「自分は努力しているのに、相手は努力していない」と思った場合に、そのようなことが起こりがちです。その結果として、わたしたちは、自分から天国の祝宴に入るのを拒むことになります。「あんな奴と一緒にされるなんてたまらない」と思うからです。
律法学者やファリサイ派の人々が、イエスをゆるせないと思ったのも、まったく同じ理由でした。勉強し、神の掟を守っている自分たちはゆるされて当然。しかし、神の掟を守らず、だらけた生活を送っている人たちがゆるされるのは受け入れられない。彼らは、そう思ってイエスの教えを拒み、殺そうとまでしたのです。
婚宴のために王様が準備したごちそう、天国の婚宴のごちそうとは何でしょう。それは、互いにゆるしあい、愛しあう喜びだと思います。招きに応じ、そのごちそうを食べるために必要なもの、それは謙虚さだと言ってよいでしょう。頑張って正しく生きている人が陥りがちな間違いは、自分だけが正しいと思い込み、他の人を裁いてしまうことです。自分も、相手と同じようにさまざまな弱さや欠点を抱えた人間だと素直に認める。相手も、その人なりに精いっぱいやっていることに気づき、その人を、神さまが寛大にゆるしてくださったことを喜ぶ。ゆるされた者同士、抱き合って祝杯を上げる。天国の婚宴とは、きっとそんなことでしょう。謙虚な心で神さまの招きに答えられるように、互いにゆるし合うことができるように、心を合わせて祈りましょう。
※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞお役立てください。

魔法の言葉
「ありがとう」と言ってもらえたとき、
わたしたちは
自分が必要とされていること、
こんな自分でも
誰かの役に立てることを知って
幸せな気持ちになります。
「ありがとう」は、どんな相手でも
幸せにできる魔法の言葉なのです。
『悲しみの向こう~希望の扉を開く言葉366』(教文館刊)
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頂いた恵みを分ち合う
「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」(マタイ21:33-43)
ぶどう園を作り、垣も、絞り場も、見張りのやぐらもすべて準備して農夫たちに貸した主人のたとえ話が読まれました。エルサレム神殿で話されたことなので、主人は神さま、よく準備されたぶどう園は神殿と考えてもよいでしょう。借りた農夫は祭司長やファリサイ派の人々ということになりますが、彼らは一人息子のイエスが来たのに、「殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう」といって神殿の実りを独り占めにしてしまったのです。
このたとえ話は、そのまま教会にも当てはまりそうです。神さまから教会を預かった信者たちが、神さまから注がれた愛を人々と分かち合い、愛の実りを結ぶなら、その信者たちはよい農夫。自分たちのことだけ考えて独り占めにするなら、悪い農夫ということになります。「わたしたちはどちらだろう」と自分に問いかけてみる必要があるでしょう。
今年もクリスマスが近づき、もうさまざまな準備が始まっています。昨年のことを振り返りながら準備するのですが、昨年のクリスマスで一番印象に残ったのは、聖堂の塔のライトアップです。1552年に山口市で、記録に残っている限り日本で最初のクリスマスが祝われたことを記念する「クリスマス市」イベントに合わせて、イベントのテーマカラーである黄色と赤に塔をライトアップできないかと信者さんに相談したところ、色々と工夫して、見事に塔のライトアップが実現したのです。夜空に浮かび上がった黄色と赤の塔は、うっとりするくらい美しいものでした。遠くから見た方々がわざわざ教会までやって来て、日没後しばらくは見学者が絶えない日が続きました。
これは、神さまから預かった教会の実りを、たくさんの人たちと分かち合ったとてもよい例でしょう。「電気代がもったいない」と言って断ることもできたのに、喜んで教会のライトアップに協力し、市民のみなさんをあたたかい気持ちにする。神さまから預かった恵みを、市民のみなさんと惜しみなく分かち合う。それこそ、神さまが喜ばれる何よりの捧げものだと思います。
昨年は、寒い中、夜のクリスマス・ミサに来てくださった皆さんにあたたかい飲み物をふるまうサービスもありました。配っている信者たちの笑顔と、「クリスマス、おめでとうございます」という喜びに満ちた一言は、あたたかな飲み物と共に、ミサに参加してくださった皆さんの心をあたためたことでしょう。これも、教会に注がれた神さまの恵みを、市民のみなさんと分かちあったとてもよい例だと思います。
神さまからお預かりした教会から、何を生み出すのか。教会に注がれたたくさんのお恵みを独り占めにするのか、それとも、市民のみなさんと惜しみなく分かち合い、愛の実りを結ぶのか。そのことが問われています。いま教会をいっぱいに満たしている神さまのお恵みを、一人でも多くの方と分かち合うことができるよう、心を合わせてお祈りしましょう。
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ゆっくり休む
「もうこれ以上は頑張れない」
と思ったなら、
それ以上、頑張る必要はありません。
人間である以上、
どんな人にも必ず限界がある。
そのことを素直に認め、周りに打ち明け、
自分を責めずに
ゆっくり休むことができますように。
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