バイブル・エッセイ(1048)十字架の神秘

十字架の神秘

 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」(ルカ17:5-10)

「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」とイエスは弟子たちに言います。わたしたちが神に仕えるのは、僕が主人に仕えるのと同じ。報いを求めず、むしろ仕えさせていただいたこと自体が報いだと思って感謝しなさいということでしょう。

 これは、イエスの教えの基本になっている考え方だと思います。こんな取るに足りないわたしが、神さまから尊い使命を与えられた。そのこと自体に感謝して、喜んでその使命を果たす。働かせていただいたこと自体が報いであって、それ以上のものは求めないということです。

 ちょっと難しいと思うかもしれませんが、ポイントは、自分に与えられている使命がどれほど尊いものかに気づくことだと思います。たとえばわたしは、神さまから神父という使命を与えられましたが、よく考えてみればこれは途方もなくありがたいことです。こんなに罪深くて弱いわたしに、神に仕え、人々の幸せのために働くという尊い使命が与えられた。困っている人の役に立つ喜びは、何ものにも代えがたい。他の人生を選んでいたら、決してこれほどの幸せは味わうことができなかっただろう。そのように考えて生きている限り、たとえ報いがなかったとしても、「使命を果たしたんだから報いがなければ割が合わない」という発想は出てこないのです。

 これは、皆さんも同じでしょう。誰もがそれぞれに、神さまから尊い使命を与えられています。日々の地道な働きを通して社会を支える使命。子どもを育てる使命。家族を守る使命。その使命を果たすときに与えられる幸せ、人生の充実感、それこそが日々の働きの何よりの報いなのです。辛いことも多いかもしれませんが、もし自分にこの使命が与えられなかったらどうなっていただろうかと想像してみると、そのありがたさが分かってくるのではないでしょうか。

 使命を与えられたことのありがたさを忘れると、神さまに文句を言いたくなってきます。「なぜ、こんなに働いているのに、わずかな報いしかないのですか。他の誰それは、さぼってばかりなのにあんなに報われて」などと言いたくなってくるのです。神さまが与えてくださった使命に感謝しないばかりか、報いがないことに文句をいうようになれば、これはまさに不幸としかいいようがありません。自分が働かせてもらっていることへの感謝を忘れるとき、わたしたちは「放蕩息子のたとえ話」の兄のように、あるいは「マルタとマリア」の話のマルタのように、不平不満をつのらせ、自分から不幸になっていくのです。

 自分の使命を喜んで果たすときにこそ、わたしたちは最高の幸せを味わうことができる。それはつまり、自分自身を、神さまから与えられた使命という十字架につけるとき、復活の喜びを味わうことができるという、十字架と復活の神秘そのものです。日々の生活の中で喜んで十字架を担い、充実した幸せな毎日を生きられるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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こころの道しるべ(135)受け入れる

受け入れる

弱くて欠点だらけの自分自身を、
それでもかけがえのない大切な命として
受け入れることができたなら、
同じように弱くて欠点だらけの相手を、
それでもかけがえのない大切な命として
受け入れることができるようになるでしょう。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(1047)淵を越える

淵を越える

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」(ルカ16:19-31)

 助けをよこしてくれと願う金持ちに、アブラハムは「わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない」と答えました。天国と地獄の間に大きな隔たりがあるということですが、これはおそらく、金持ちとアブラハムたちとの間にある心の隔たりのことでしょう。自分のことしか考えられない金持ちと、互いに愛し合って生きるアブラハムたちの世界には、越えようとしても決して越えられない隔たりがあるのです。

 金持ちの言動を追っていくと、彼が自分のことしか考えていないということがよく分かります。彼がまず言ったのは、「ラザロをよこしてわたしの舌を冷やしてください」ということでした。それを断られると、次に言ったのは、「自分の兄弟を地獄に来ないよう諭してください」ということでした。彼が考えているのは一貫して自分と自分の家族のことだけで、ラザロのことはまるで召使か何かのようにしか思っていないのです。もしラザロのことを思いやる気持ちがこの金持ちの中に一かけらでもあったとすれば、彼は、まず自分が生きていたころラザロにした仕打ちを詫びたに違いありません。しかし、ラザロのことなど、彼の眼中にはなかったのです。

 これは生きていたころから同じでした。ラザロはきっと、極度の栄養失調だったのでしょう。栄養失調になると体のあちこちに大きなできものが現れ、そこから膿が出るようになります。自分の家の門の前でラザロがそんな状況で餓死しかけているのを見ながら、彼はラザロにまったく関心を持たなかったのです。この金持ちは、自分さえよければいい、自分たちさえよければいいという考え方で生きてきたということでしょう。そんな彼の心は、死んだ後も変わりませんでした。天国と地獄を隔てる淵は、もうすでに彼が生きているあいだに存在していたのです。

 よいことをした人はその報いとして天国に案内され、悪いことをした人はその罰として地獄に落とされるという風に考えがちですが、実際には、天国に行くか地獄に行くかは、わたしたち自身が決めることだといってよいでしょう。もしこの地上で自分のことしか考えず、他の人たちを利用したり傷つけたりしながら生きている人は、この世界でも地獄を生きて、そのまま地獄に行き、他の人たちの苦しみに関心を持って、互いに愛しあい、助けあって生きる人は、この地上でも天国を生きて、死んだ後も天国に行くのです。

 幸い、わたしたちはまだ生きています。わたしたちはまだ、自分の生き方を変えることによって、天国と地獄の間にある淵を越えられるのです。他の人たちの苦しみや悲しみに関心を持ち、その人たちのために自分を差し出すことによって、少しずつアブラハムの側に近づいてゆくことができるよう、この地上での命が終わるまでに、アブラハムの側に渡ることができるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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こころの道しるべ(134)弱さと強さ

弱さと強さ

大きな試練に直面したとき、
わたしたちは
何もできない自分の無力さに
打ちひしがれると同時に、
それほどの困難からでさえ立ち上がれる
自分の力に気づきます。
大きな試練の中で、わたしたちは
これまでに知らなかった
自分の弱さと強さを知るのです。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(1046)小さなことへの忠実

小さなことへの忠実

「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(ルカ16:10-13)

「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」とイエスは言います。これは、わたしたちの体験からも明らかなことでしょう。小さなことに忠実な人は、相手を本当に愛している人であり、相手を本当に愛している人は、小さなことにも、大きなことにも同じように忠実なのです。相手への愛は、小さなことの中にこそ現れるといってもよいでしょう。

 例えば、奥さんがとても疲れているのに、そのことにまったく気づかず、ねぎらい言葉をかけることも、助けの手を差し伸べることもないとすれば、その夫に愛は感じられるでしょうか。ときどき思い出したようにプレゼントをし、愛を誓ったとしても、それは単に奥さんの気持ちを自分に引き戻すためであって、心の底から奥さんを愛しているとは考えにくいと思います。奥さんの疲れにすぐ気づき、ねぎらいの言葉をかけたり、助けの手を差し伸べたりできる人、小さな事で奥さんに忠実な人こそ、本当に奥さんを愛している人であり、小さな事でも、大きな事でも、変わらずに奥さんを愛し続ける人なのです。

 神さまとの関係で考えるならば、大きな事とは神さまを愛すること。小さな事とは、神さまの教えに従って隣人を愛することだと考えたらよいでしょう。どんなに神さまを愛しているといったところで、もし普段、神さまの子どもである人たち、家族や友人、隣人たちに対して不誠実な態度をとっているなら、その人の神さまへの愛は、ちょっと疑わしいと思います。身の回りにいて困っている人たち、世間の片隅に追いやられて苦しんでいる人たちに対する態度の中にこそ、わたしたちの神さまへの愛が現れるのです。

 このように考えていくと、いわゆる「不正な管理人のたとえ」の中でイエスが語ったことの意味も少し分かるような気がします。「不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか」とイエスはいいますが、ここでいう「不正にまみれた富について忠実である」とは、預かった富を神に忠実に使う。つまり、困っている人々、苦しんでいる人々と分かち合うということでしょう。地上での富を正しく使うことができたなら、神さまはその人に天国の富を惜しみなく与えてくださるに違いありません。なぜなら、その人こそ、神さまを本当に愛している人であり、神さまの愛を受けるのにふさわしい人だからです。

 「不正な管理人」は、借金を帳消しにすることによって友だちを作りました。わたしたちは、周りの人たちを気前よくゆるし、友だちを作っているでしょうか。神さまから頂いた愛を、周りの人たちと分かち合ってるでしょうか。もしそれができていないなら、わたしたちの知恵は「不正な管理人」に劣ることになります。小さなことに忠実であることによって、神さまへの愛が本物であることを証することができるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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こころの道しるべ(133)愛の響き

愛の響き

自分のことを棚に上げて、
相手の欠点を指摘するなら、
その言葉は裁きの響きを持ちます。
自分にもたくさんの
欠点があることを認め、
それでも相手のことを思って言うなら、
その言葉は愛の響きを持ちます。

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バイブル・エッセイ(1045)弱いからこそ

弱いからこそ

 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」(ルカ15:1-10)

 今日の聖書箇所の最後で、イエスは「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」といっています。ルカ15章では、迷い出た1匹の小羊のたとえ、失われた銀貨のたとえ、放蕩息子のたとえと3つのたとえ話が続けて語られるのですが、これらのたとえ話を通してイエスがいいたかったのは、まさにこのことでした。わたしたちは誰もが神の子であり、たとえ1人でも迷い出て苦しんでいれば、神は放っておくことができません。もしその人が自分の間違いに気づき、神のもとに戻るなら、天には大きな喜びがあるのです。

 これは、わたしたちにとって大きな喜びの知らせ、まさに福音だと思います。なぜなら、わたしたちは誰もが、多かれ少なかれ道を踏み外し、神さまに心配をかけている罪びとだからです。どんなに反省しても、告解して罪をゆるしてもらっても、また同じ罪を犯してしまう。そんな弱さを持ったわたしたちを、神さまは決して見捨てることがありません。道に迷ったわたしたちを、神さまは忍耐強く待ち続け、探し続けてくださる方なのです。どんなに時間がかかったとしても、わたしたちが悔い改め、正しい道に戻るなら、天には大きな喜びがあります。自分が罪びとであることに気づき、そのことに嫌気がさしたなら、そのときこそ神さまを喜ばせるためのチャンスだといってよいでしょう。

 わたしたちが悔い改めるなら、それは他の人のためにもなります。「わたしが憐れみを受けたのは、わたしがこの方(キリスト)を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした」とパウロが自分の経験を語っていますが、もし罪びとであるわたしたちが悔い改め、罪をゆるされるなら、それは罪の中に迷っている他の人たちにとって「手本となる」のです。悔い改め、ゆるされたわたしたちの姿が、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」ということの何よりの証になるといってもよいでしょう。悔い改め、罪をゆるしていただくことによって、わたしたちは、「神さまは、これほど罪深い人間でもゆるしてくださるほど慈しみ深い方だ」ということを、身をもって示すことができるのです。

 長年、教会に通っている人の中には、「いつも同じ罪ばかり犯している弱いわたしを、本当に神さまはゆるしてくださるのだろうか」と思ってあきらめかけている人もいるかもしれません。しかし、神さまは、そんな人こそ待っておられるのです。弱いわたしたちだからこそ神さまを喜ばせることができるし、弱いわたしたちだからこそ神の慈しみ深さを、身をもって証しすることができるのです。「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」というイエスの言葉をしっかりと胸に刻み、共に悔い改めの道を歩み続けることができるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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