バイブル・エッセイ(1140)「罪の赦しを得させる悔い改め」

「罪の赦しを得させる悔い改め」

(そのとき、エルサレムに戻った二人の弟子は、)道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。(ルカ24:35-48)

 弟子たちの前に姿を現したイエスが、「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」という旧約の言い伝えを弟子たちに思い起こさせ、「心の目」を開いてその真の意味を悟らせる場面が読まれました。
 十字架と復活の真の意味とはなんでしょう。それは、イエス・キリストによってすべての罪がゆるされ、神と人間とのあいだに和解が実現したということに他なりません。イエスは、イエスを裏切って逃げるという罪さえゆるしてくださった。こんなわたしたちでさえ、イエスはあるがままに受け入れてくださった。その体験を通して、弟子たちは十字架と復活の真の意味を深く悟り、それを人々に伝える使命を与えられたのです。神の愛の本当の意味を、人々に伝える使命を与えられたといってもよいでしょう。
 「罪の赦しを得させる悔い改め」という言葉が使われています。単なる後悔ではなく、罪からの解放をもたらす、根本的な悔い改めがもたらされるという意味だと考えてよいでしょう。では、人間は、どうしたら罪から解放されるのでしょう。罪はいったい、どこから生まれてくるのでしょう。
 わたしは刑務所の教誨師をしていますが、罪を犯した人たちからよく聞くのは、「どうせ自分なんか、誰からも相手にされていない。自分が悪いことをしたって悲しむ人は誰もいない」という言葉です。だから、もうやけになって罪を犯したというのです。そうだとすれば、彼らの罪の根底にあるのは、「自分なんか誰からも愛されていない」という気持ちだといっていいでしょう。幼少期に虐待された体験や社会からの差別など、さまざまな体験を通して、彼らは、「自分は誰からも愛される価値がない。どうなってもいい人間だ」と思い込んでしまったのです。
 彼らの罪の根源にあるのは、愛された体験の欠如、愛の欠如だといっていいでしょう。現に、彼らの多くが、自分を愛してくれる人と出会うことによって、そのような人たちの存在に気づくことによって悔い改め、罪から解放されていきます。家族との関係を回復することによって、あるいは親身になってくれる刑務官や教誨師などと出会うことによって、彼らは悔い改め、罪から解放されていきます。「こんなにも自分のことを思っていてくれる人がいるなら、もう悪いことをするのは止めよう。この人を悲しませることはできない」と思えるようになっていくのです。
 罪のゆるしとは、弱くて意気地なしのこんな自分でさえ受け入れてくれる人がいるという愛の体験に他なりません。そのような愛の存在だけが、わたしたちを罪から解放してくれるのです。十字架と復活の出来事を通してイエスの愛に触れ、ゆるされたわたしたちの使命は、罪の中に閉じ込められている人を愛すること、わたしたちの愛を通して神の愛を告げることによって、彼らを罪から解放することだといってよいでしょう。イエスから与えられたこの使命、「罪の赦しを得させる悔い改め」の証人としての使命を果たすことができるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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