バイブル・エッセイ(1141)愛の響き

愛の響き

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」(ヨハネ10:11-18)

「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」というイエスの言葉が読まれました。「命を捨てる」というと、何か命を粗末に扱っているようにも聞こえますが、イエスがいうのは、自分の羊、自分に委ねられたかけがえのない大切な人々のためには、自分の命を捨ててもかまわないということ。それほどまでに誰かを愛することこそ、本当の意味で生きるということであり、命を捨てるほど誰かを愛したとき、わたしたちは永遠の命を与えられるのだということです。肉体の死など恐れる必要はない。愛することによってのみ、わたしたちは永遠に生きる。イエスは、この言葉を通してわたしたちにそう語りかけているのです。
「羊は、わたしの声を聞き分ける」ともイエスはいいます。神の愛を伝えるためならば、その人のために命を捨ててもかまわないというほどの思いが込められた言葉は、相手の心に必ず届くということでしょう。わたしたちの声を聞く人は、その声の中に込められたわたしたちの深い思いを必ず聞き取るのです。わたしたちが本気かどうかを、声から聞き分けることができるといってもよいでしょう。
 それは、皆さんもよく分かるでしょう。たとえば、わたしが説教台から話すときに、わたしがその言葉を本気でいっているのか。「わたしたち一人ひとりがかけがえのない神の子だ」と本当に信じているのかを、みなさんはその声から聞き分けることができるはずです。わたしたちには、イエスの愛を感じ取り、聞き分ける力が与えられているのです。
 わたしたちが教会に集まっているという意味で「囲いの中の羊」だとすれば、「囲いに入っていないほかの羊」もいます。教会に来ることがない人たち、日本社会の中でわたしたちが出会うほとんどの人たちのことです。その人たちにも、イエスの声を聞き分ける力があります。たとえば、友人から相談を受けてわたしたちが話すとき、キリスト教徒でないわたしたちの友人は、わたしたちの中に、本当に相手を思う愛があるか。その人のために、自分を差し出すだけの覚悟をもって話しているかどうかを、はっきりと聞き分けます。もしわたしたちの中にイエスの愛がないなら、相手は、わたしたちの話をただの「きれい事」としてしか受け止めないでしょう。しかし、もしわたしたちの中にイエスの愛があるなら、その愛は、必ず相手の心に届き、相手の心によい変化を引き起こすのです。すべては、わたしたちの心に愛があるか、相手のために自分を差し出す覚悟があるかにかかっているといっていいでしょう。
 イエスの声を聞いたとき、当時のパレスチナの人々はその中に神の愛の響きを感じ取り、イエスの後に従いました。もしわたしたちの心に、相手のために自分の命を差し出してもかまわないというほどの愛、イエスの愛があるならば、わたしたちが出会う人たちも、必ずイエスの声を聞き分けるでしょう。まず、わたしたち自身がイエスの愛と出会い、心を愛で満たして頂くことができるように、そして、イエスの愛に満たされた心で人々のもとにでかけていくことができるように祈りましょう。

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