バイブル・エッセイ(16) 毒麦


 エスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」(マタイ13:24-30)
 神学生時代、わたしは修道院の庭で花を育てていました。今の時期なら、ホウセンカやヒマワリ、そして秋に向けてコスモスなどを手入れしていたと思います。毎朝、小さな花壇に行って「今日はどれくらい大きくなったかな」と確認し、雑草を抜き、水をやるというのが日課でした。雑草を抜いていると、ときどき花の芽まで一緒に抜いてしまうことがあります。花の根が雑草の根とからまっていて、一緒に抜けてしまうのです。今日の福音を読んでいて、そのことを思い出しました。
 わたしたちの心の根も、毒麦の根とからみあっていることが多いのではないかと思います。なにかよいことをしたときに、その行いの根をたどっていくとそのことに気付かされます。
 たとえば、何か不正を見つけてそのことを正そうとするとき、自分自身に向けられた不当な非難に対して反論するとき、わたしたちの心の根はどこかで「自分だけが正しい。他の人は間違っている」という独善性の毒麦の根とからみあっていることがあるようです。あるいは、困っている人のために何かをしてあげるとき、苦しんでいる人のそばにとどまろうとするとき、わたしたちの心の根はどこかで「これを見た人が自分を評価してくれるだろう」という思いと絡み合っていることがあります。他人を利用して自己実現をしようとする毒麦の根が、よい麦の根と絡み合っているのです。子育ての場合でもそうでしょう。「この子のため」と思って子どもを叱るとき、わたしたちの心の根はどこかで「自分の思い通りの子どもに育ってもらわなければ困る」という自己中心性の毒麦の根と絡み合っていることがあるようです。
 人間の心は罪深いので、どんなによい思いで何かをしようと思っても、気づかない間に毒麦の根が心の中に入り込んでしまうようです。これは教会で働いていて日々痛感することなのですが、ほんとうにわたしは弱い人間だなと思います。
 ですが、イエス様はそのような人間の弱さを知っておられ、忍耐強く赦してくださいます。わたしたちの心に毒麦が生えたとしても、それを抜いてしまうことはないのです。そんなことをしたら、よい麦まで抜けてしまうかもしれないということを、イエス様はよく御存じだからです。イエス様は、きっと最後の刈り取りの日に、わたしたちの心から毒麦をすべて引き抜き、完全によい心で「神の国」に迎え入れてくださるでしょう。このイエス様の寛大さ、慈しみ深さに感謝し、心の中に入り込もうとする毒麦の根に注意したいものだと思います。
※写真の解説…麦の穂。昭和記念公園にて撮影。