バイブル・エッセイ(313)「何をしてほしいのか」


「何をしてほしいのか」
 エスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。(マルコ10:46-52)
 喜び勇んでイエスの前に立った盲人に、イエスは「何をしてほしいのか」と尋ねました。盲人はただちに視力の回復を願いましたが、わたしたちはその問いにどう答えるでしょうか。もしイエスの前に立つことを許され、イエスから「何でもいいから願いを言いなさい、何をしてほしいのか」と尋ねられたら、わたしたちは何を願うでしょう。これは、いつも考えておくべきことだと思います。
 例えば、教会で自分のやり方についてひどい悪口を言われ、そのことで腹が立って仕方がないとき、イエスがわたしたちの前に現れたらどうでしょう。そのとき、もし「あのひどいことを言った人を厳しく罰してください」と願うなら、イエスは悲しい顔をして「それは他の人に頼みなさい」と言うかもしれません。イエスは、誰かを罰するためにこの世に来られたのではないからです。
 そんなとき、わたしたちがもっとよく自分の心の動きを見極めていれば、もっと正しく願うことができるに違いありません。腹が立って仕方がないのは「自分は教会のことを誰よりもよく知っている。自分は誰からも尊敬されるべき人間だ」という思い込みがあったからだと気づき、「傲慢な思い込みで曇らされた目を開き、相手の言っていることの中にも正しさがあるという現実を直視させてください」と願うなら、イエスはきっと「あなたの信仰があなたを救った」と言ってわたしたちの心の目を開いてくださるに違いありません。イエスは、わたしたちに真理を告げるために来られた方だからです。
 また例えば、子どもがちっとも言うことを聞かないことで悩んでいるとき、イエスがわたしたちの前に現れたらどうでしょう。もし「子どもをもっと素直にしてください」と願っても、イエスは悲しい顔をして「それはわたしの仕事ではない」と言われるでしょう。イエスは、子どもを親に従わせるために来たのではないからです。ですが、もし子どもが言うことを聞かないのは自分の生き方や価値観を子どもに押し付けようとしていたからだと気づき、「子どもへの執着で曇った目を開き、子どもには子どもの歩むべき道があるという現実を直視させてください」と願うなら、イエスはきっと「あなたの信仰があなたを救った」と言ってわたしたちの心の目を開いてくださるに違いありません。イエスは、わたしたち一人ひとりに、それぞれの救いの道を準備してくださる方だからです。
 イエスの前に立ったとき、とっさに間違ったことを願ってイエスを悲しませないよう、正しく願うための識別を怠らないようにしたいと思います。何が自分の心の目を曇らせているのかをしっかりと見極めた上で、その曇りを取り去って下さるよう願うなら、イエスは必ずわたしたちの心の目を開いて見えるようにしてくださるはずです。
※写真の解説…イエズス会長束修道院にて、雨上がりの朝に。