入門講座(17) エウカリスチアの秘跡①

《今日の福音》ルカ6:12-16
 イエス十二使徒を選ぶ場面です。この場面は、まずイエスが山で祈りのときを過ごしたという記述から始まっています。何か大きな決定をする前に一人で祈りのときを過ごすというのは、イエスの行動の一つの特徴ということができます。
 次に使徒として選ばれた十二人の名前が列挙されていきます。使徒という概念ですが、これはなかなか難しい問題をはらんでいます。なぜなら、イエスと直接出会って教えを受けていないパウロ使徒と呼ばれている一方、おそらくイエスと直接出会ったことのある初代教会のリーダー「主の兄弟ヤコブ」が使徒と呼ばれていないからです。いずれにしても、使徒とはイエスの教えを忠実に守り、伝える役割を特別に与えられた人のことだと言えるでしょう。
 ここで十二人が選ばれたのは、イスラエルの十二部族にちなんでいるとする説が有力です。十二という数が大切だったので、実際にこのとき十二人の使徒がいたのかどうかに疑問を抱く学者もいます。なぜなら、ルカとマタイ・マルコで使徒の名前に違いがあるからです。ルカではヤコブの子ユダが使徒とされていますが、マタイ・マルコにはその名前がなく、その代わりにアルファイの子タダイが使徒であったとされています。いずれにしても、徴税人や熱心党など、まったく違う人生の背景を持った人たちがイエスの周りに集まっていたということは言えるでしょう。
 十二使徒の名前は、使徒行伝の初めに少し出てくるだけですぐに聖書から見当たらなくなります。イエスの死後、十二使徒たちはその役割を終え、次の世代の信者たちに場所を譲っていったのだと考えられます。

《エウカリスチアの秘跡
 今回から3回かけて「エウカリスチアの秘跡」についてお話ししようと思います。エウカリスチアという言葉にはなじみがないかもしれませんが、この秘跡の全体像を示すためにふさわしい日本語の訳がまだないため、今回はあえて「エウカリスチアの秘跡」という言葉を使います。前半ではこの秘跡が持つ意義についてお話しし、後半ではミサの成り立ちと意味についてお話ししたいと思っています。

Ⅰ.エウカリスチアの秘跡とは何か
1.御聖体とミサ
 洗礼式・堅信式に続けて、御聖体をいただくことがキリスト教入信プロセスの中心です。エウカリスチアの秘跡の中心をなすのは御聖体であるため、この秘跡を「御聖体の秘跡」と呼ぶこともあります。しかし、ただ「御聖体の秘跡」と呼んでしまうと、キリスト御自身の目に見えるしるしである「御聖体」を通して恵みが与えられることだけが秘跡の内容であるかのような誤解が生じかねません。
 この秘跡の中心が御聖体であることは間違いありませんが、パンとブドウ酒がキリストの体と血に変えられる儀式としてのミサもこの秘跡の中に含まれます。広い意味では、ミサ全体もエウカリスチアの秘跡と呼ばれるのです。御聖体をいただくだけでなく、ミサの中で司祭と会衆が共に神を賛美し、イエスを思い起こし、犠牲を捧げ、イエスの食卓につくというしるしを通して恵みが与えられることもこの秘跡の内容なのです。そもそも、エウカリスチアという言葉は、「感謝の祈りを唱える」という意味のギリシア語エウカリステインに由来しています。ミサの中で共に感謝の祈りを唱えることこそ、まさにエウカリスチアなのです。

2.エウカリスチアの秘跡の意義
 エウカリスチアの秘跡は、すべてのキリスト教的礼拝の頂点であり、キリスト教信仰の要約であると言われます。7つの秘跡の中でも最高の秘跡と見なされ、「秘跡中の秘跡」と呼ばれることもあります。なぜこの秘跡はそれほどまでに大切なのでしょうか。今回は、記念、現存、食事、犠牲、感謝という5つの言葉をキーワードにして考えてみたいと思います。
(1)キリストの記念
①イエス御自身の言葉
 弟子たちとの最後の食事の席で、イエスはパンとブドウ酒を弟子たちに分け与えた後、「これをわたしの記念として行いなさい」(ルカ22:19,1コリ11:24)とおっしゃいました。エウカリスチアの秘跡は、この言葉を実行し、イエス・キリストを記念する秘跡だと言えます。
記念という言葉は、当時のユダヤ教文化の中で特別な意味を持った言葉です。記念するというとき、それは単に思い出して祝うというような意味を越えて、あることを絶えず思い起こし、目の当たりにしているかのように忘れないことを意味しています。イエス・キリストの生涯、とりわけ御受難と復活を今まさに目の前に起こっているかのように鮮明に思い起こすことによって、神の恵みをはっきりと感じる秘跡、それがエウカリスチアの秘跡なのです。
②「主の晩餐」
 イエスを記念する食事会としての「主の晩餐」(1コリ11)は、紀元40年頃、すなわちイエスの死後間もない頃から行われていたと考えられます。当初、弟子たちはユダヤ教安息日の前夜、すなわち金曜日の晩に集まって食事会をしていました。この食事会から実際の食事が切り離され、記念の儀式として発展したのが今日のミサだと考えられています。
(2)キリストの現存
①御聖体における現存
 弟子たちとの最後の食事の席で、イエスはパンをご自分の体、ブドウ酒をご自分の血と宣言されました(マタイ26:26-27等)。これが、イエス御自身による御聖体の制定です。この出来事から、イエスを記念する食事の席でイエスの言葉を繰り返しながらパンを裂き、ブドウ酒を飲むとき、そこにイエスの体と血が現存するという信仰が生まれました。この出来事によって、わたしたちは御聖体というしるしにおいてイエス・キリスト御自身と出会い、イエス・キリスト御自身と共にいる恵みを与えられたのです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」(マタイ28:20)というイエスの約束は、エウカリスチアの秘跡の中で最もはっきり実現したと言えるでしょう。
②実体変化の教え
 イエスの言葉を繰り返し、聖霊の恵みを願うことでパンとブドウ酒がイエスの体と血に変化するという教えは、実体変化の教えと呼ばれてきました。御聖体と御血は、聖変化の後も外見や成分ではパンとブドウ酒のままだが、その実体においてイエスの体に変化しているという教えです。御聖体と御血は、単にイエスの体と血を思い出すためのシンボルなのではなく、実体としてイエスの体と血そのものだというのです。
 もっとも、御聖体は、見ても触っても食べてもパンとの違いが分かりません。聖変化は外見に起こるようなものではないからです。わたしたちの目に見えない、パンの実体に起こる変化なのです。分かりにくいかもしれませんが、例えばこういうことです。パンと同じで、人間も物質的な体と目に見えない実体から出来上がっています。もし外見が人間であってもなんらかの理由で精神活動が完全に猫になったとしたら、その人は、体は人間でも実体として猫だということができるでしょう。そこにいるのは、もはや猫なのです。パンの実体にもなんらかの変化が起こって、パンの外見でありながら、実体としてイエスの肉に変化すると考えられます。
③御聖体への信心
 実体において完全にキリストの体に変化した御聖体に対して、中世の頃たくさんの信心が生まれました。御聖体を手で取るのではなく、口で受けるという習慣もこのころ生まれたものです。受けた御聖体を噛んではいけないというような信心も生まれました。
 御ミサと離れて御聖体を礼拝する習慣も生まれました。実体としてキリストの体に変化した以上、御聖体はミサが終わってもキリストの体であり続けますから、そのようなことも可能なのです。聖体顕示式や聖体行列などは、こうして生まれました。
(3)キリストとの食事
①どんな食事なのか
エウカリスチアの秘跡は、次の2つの意味でイエスと共にする食事だと考えられます。
鄯.「最後の晩餐」の再現
 エウカリスチアの秘跡は、イエスと弟子たちの最後の食事、すなわち「最後の晩餐」の再現だと考えられます。十字架に付けられる前、イエス出エジプトを記念する「過ぎ越しの食事」の形式にのっとって弟子たちと一緒に食事をし、そこでエウカリスチアの秘跡を制定しました。ミサは、この食事の再現なのです。ミサのときに用いられる祭壇は、この食事で使われたテーブルの象徴です。ミサの中でわたしたちは、祭壇を囲んでみんなで一緒に食事をするのです。
鄱.天上のエルサレムにおける「子羊の婚宴」の先取り
 エウカリスチアの秘跡は、黙示録19章に出てくる天上のエルサレムでの子羊の婚宴の食事、すなわち世の終わりに行われるイエス・キリストの婚宴の食事の先取りだと考えられます。イエスに従って生きた人はすべて、世の終わりにこの婚宴に招かれますが、そのことを先取りする食事がミサなのです。
 いずれにしても、イエスと、そして信仰の上での兄弟姉妹たちと一緒に食事をするというしるしを通して神様の恵みをいただくのがエウカリスチアの秘跡だと言えるでしょう。
②食事であることの意味
鄯.共同体性の現れ
 食事をすることで、わたしたちは自分がイエスと、そして御ミサに出ているすべての人と仲間であることを体験できます。現代の日本でもそうですが、食卓は当時のイスラエルでもお互いが仲間であることを認め、お互いの絆を深めあう場でした。
鄱.分かち合いの場
 食卓で同じ食べ物を分かち合うということにも深い意味があります。同じ食物で養われるとき、わたしたちの絆は一層深いものになります。「同じ釜の飯を食う」というようなことです。
鄴.交わりの場
 食卓としてのミサは、本当に多様な人たちの交わりの場です。子供も、青年も、壮年も、御婦人も、お年寄りも、すべての人が同じ食卓を囲んで交わるのです。貧富の差も、世間的な地位も、健康状態も、この交わりの中では何の意味も持ちません。すべての人がイエスの前で、まったく同じ「神の子」として交わるのです。
(4)キリストの犠牲の再現
①キリストの犠牲に与る
 イエス・キリストの体と血を神様にお捧げすることで、ミサはイエスの十字架上での自己犠牲を再現していると考えられます。十字架上でイエスはご自分のすべてを神様に差し出しましたが、御ミサの食卓でも同じことが実現しているのです。御ミサに参加するわたしたち信者は、イエスの犠牲に心を合わせて自分たち自身の人生をミサの中で神様にお捧げします。エウカリスチアの秘跡は、イエスの体と血の奉献というしるしを通して、わたしたち自身の人生をも神様にお捧げする恵みなのです。
②犠牲は必要なのか?
 日本では今のところ、奉納祈願の後の「神の栄光と賛美のため、また全教会と私たち自身のために司祭の手を通してお捧げするいけにえをお受けください」という祈りが任意になっています。これは、「いけにえ」という考え方が日本人になじみにくいことへの配慮だそうです。
 果たして、神様はわたしたちの犠牲を必要とするのでしょうか。全能の神は、わたしたちが犠牲を捧げなければわたしたちを救ってくださらないのでしょうか。これは大きな疑問です。
 わたしは、わたしたち自身の救いのために自己犠牲は絶対に必要だと考えています。神の怒りをなだめるために犠牲が必要だということではなく、神様と一致するためには神様のために自分の思いを乗り越えていくことがどうしても必要だと思うからです。神様のために自分がしたいこと、ほしいものなどをあきらめ、犠牲として捧げるとき、わたしたちは神様の愛により深く触れることができるでしょう。
(5)父なる神への感謝
 エウカリスチアの秘跡によって、わたしたちは父なる神の創造の恵みと救いの業に感謝し、父なる神を賛美します。奉献文の最後で「キリストによって、キリストと共に、キリストのうちに、聖霊の交わりの中で全能の神、父であるあなたに、すべての誉れと栄光は世々に至るまで」という祈りが唱えられますが、この祈りが示しているとおり、御ミサの中でわたしたちはキリストによって、キリスト共に、キリストのうちに神に感謝し、神を賛美するのです。喜びのうちに皆で神に感謝し、神を賛美することは、それ自体が恵みだと言えるでしょう。

《参考文献》
・『カトリック教会のカテキズム』、カトリック中央協議会、2002年。