バイブル・エッセイ(1142)イエスとつながる

イエスとつながる

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」(ヨハネ15:1-8)

「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」とイエスはいいます。日々の生活のなかでイエスとしっかりつながり、イエスからあふれ出す喜びと力に満たされているならば、わたしたちは豊かな実を結ぶことができる。いや、結ばずにはいられなくなる。イエスは、わたしたちにそう語りかけているのです。
 イエスとしっかりつながるというのは、聖書を開いてイエスの言葉を読むというだけでなく、イエスがいま目の前にいてわたしたちに語りかけてくださっているのを聞き、すべてを包み込むようなイエスのやさしいまなざしを感じ取り、イエスのぬくもりにふれるということ。イエスの愛を全身で感じるということだといっていいでしょう。「イエスは、わたしのことをこれほどまでに愛していてくださる。こんなに弱くて、欠点だらけのわたしを、あるがままに受け入れてくださる」、そのことを全身で感じとるとき、わたしたちの心は喜びと力で満たされます。そして、このすばらしい福音、すべての人間をあるがままに受け入れ、愛し、見守っていてくださる神さまの愛を、一人でも多くの人に伝えずにはいられなくなるのです。
 いま教会はさまざまな困難に直面していますが、このようなときこそ、イエスにしっかりつながるべきでしょう。困難に直面したとき、わたしたちはつい目先の問題にばかり気をとられ、イエスのことを忘れてしまいがちだからです。イエスのことを忘れると、わたしたちの心はどんどん喜びと力を失い、嘆きとあきらめに支配されていきます。「困ったな。もうどうにもならない。わたしたちにできることは何もない」と考え、未来への道を自分で閉ざすようになるのです。絶望がわたしたちの心を閉し、イエスとの交わりを断ってしまう。そういってもいいかもしれません。
 さまざまな困難に直面したいまこそ、イエスとの交わりをしっかり守るべきときです。困難な情況に置かれたわたしたちを、イエスがやさしく見守っていてくださることを思い出し、「何も恐れることはない。わたしがいつも、あなたたちと共にいる」と語りかけるイエスの声に耳を傾けるときなのです。イエスのまなざしに触れ、やさしい言葉に癒されるとき、わたしたちの心は喜びと力で満たされます。「あれもないし、これもないからもう駄目だ」という考えはどこかに消え去り、「まだあれもあるし、これもある。できることはいくらでもある」とか、「あの人が苦しんでいる、この人も苦しんでいる。何かせずにはいられない」といった気持ちに駆り立てられるようになるのです。
 わたしたちが活き活きと実を結び始めるなら、父なる神は、「いよいよ豊かに実を結ぶように手入れ」をしてくださいます。さらに豊かに肥料を与え、伸びすぎた部分を整えて、より活き活きとした教会にしてくださるのです。さまざまな困難に直面しているいまだからこそ、イエスとしっかりつながり、豊かな実を結ぶことができるように祈りましょう。

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