バイブル・エッセイ(28) 神の御心

 このエッセイは、11月2日「死者の日」の海星病院の御ミサでの説教に基づいています。

 父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。
 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。(ヨハネ6:37-40)

 「わたしのところに来る人を、わたしは決して追い出さない」とイエスはおっしゃっいます。わたしたちがどんな人間であっても、イエスは暖かく迎え入れてくださるというのです。なぜなら、イエスが来られたのは「自分の意思を行うためではなく」、父なる神の御心を行うためだったからです。
 イエスも人間でしたから、誰かを受け入れたくないという思いに駆られることだってあったでしょう。たとえば、自分を利用しようとして近づいてくる人たちや、自分に対して悪意をむき出しにしてくる人たちなどを受け入れるのは難しかっただろうと思います。重い病気の人たちの世話をするのは大変だと思ったことだってあるかもしれません。しかし、イエスはそのような人たちの誰一人として拒むことがありませんでした。なぜなら、イエスと出会う人が一人残らず救われることこそ神の御心だとよく御存じだったからです。自分の意思を越えて神の御心を行うため、イエスは御自分を殺そうとしている兵士たちまで受け入れ、彼らのために祈ったのです。
 イエスに出会う人が一人残らず救われるという恵みを、今日もっともよく体験できるのは御ミサの場だと思います。こうして御ミサに集まったわたしたちは、御ミサの中でイエスと出会い、イエスの愛に暖かく迎え入れられるのです。イエスはわたしたちがどれほど傷つき、病んでいたとしても、どんなにひどい罪を犯してきたとしても両手を広げてわたしたちを迎え入れてくださいます。わたしたちを一人残らず「よく来たね。もう安心だよ」と言って迎え入れてくださるのです。
 御ミサの中でイエスと出会うとき、わたしたちには「永遠の命」が与えられます。なぜなら、イエスの体である御聖体にはイエスの「永遠の命」が宿っているからです。御聖体の前で司祭と会衆が共に心を合わせて祈り、イエスの心とわたしたちの心が一つになったとき、わたしたちの心にも「永遠の命」が宿ります。そのことは、わたしたちが共に御聖体をいただくときにもっともはっきりした形で示されるでしょう。そのようにして、「子を見て信じるものがみな永遠の命を得る」という父の御心が実現するのです。
 この「永遠の命」の中で、わたしたちはすべての死者たち、地上での命を全うして今は「永遠の命」に入ったすべての人たちと堅く結ばれます。イエスが与えてくださる「永遠の命」の中で、わたしたちと死者を隔てる肉体の死はなんの意味も持ちません。「永遠の命」の中で、すべての死者たちは今、ここでわたしたちと共に神に賛美と感謝を捧げているのです。
 御聖体を前にして、死者たちが今ここにわたしたちと一緒にいることを心から信じ、また感じたいものです。「終わりの日」にわたしたちは、再び肉体をもった完全な姿で再会し、共に神を賛美することができるでしょう。御ミサはその日の先取りなのです。この大きな恵みに、心から感謝したいと思います。
※写真の解説…高野山の紅葉。