バイブル・エッセイ(178)命の飢え


命の飢え
(そのとき、群衆はイエスに)言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ6:30-35)
 天からパンを降らせるまでもなく、自分自身が「命のパン」であり、自分の元に来るものは誰も飢えることがないとイエスはおっしゃいます。イエスが「命のパン」であるとは、イエスの傍にいるだけで飢えることがないとは一体どういうことなのでしょう。
 わたしたちが日々の生活の中で感じる飢えは肉体の飢えだけではありません。物事が自分の思った通りに進まないとき、本当にやりたいことが何一つできないと感じられるようなとき、わたしたちの心はさらに深刻な飢えに襲われます。それは、自分が生きていることの意味への飢え、自分が生きていることには何の意味もないのではないかという疑いです。この飢えは本当にひどいもので、生きている意味が見つからないという理由で絶望し、自ら命を絶ってしまう人さえいます。命にまで直結する、生きる意味へのこのひどい飢えを、「命の飢え」と呼んでもいいかもしれません。
 この「命の飢え」を満たすことができる唯一の糧、それこそが「命のパン」であるイエスです。イエスと出会い、「わたしにとってあなたはかけがえのない存在だ。わたしはあなたを愛している」というイエスのメッセージを受け止めるとき、わたしたちは自分の人生に意味があることを確かに悟ることでしょう。エスから愛されて今を生きている、そのこと自体がわたしたちの命の意味であり、それ以上の意味など必要ないのです。このようにして「命の飢え」を癒してくださるイエスの愛、それこそわたしたちを生かす「命のパン」だと言っていいでしょう。
 「自分の人生には意味がない」と嘆くとき、わたしたちはもしかすると自分の人生に高望みをしすぎているのかもしれません。イエスに愛されて今を生きているという事実にいつも感謝し、その事実を人生の土台として生きていく限り、わたしたちは一生飢えることはないでしょう。
※写真の解説…光り輝く新緑と布引の滝。