バイブル・エッセイ(177)羊たちの門


羊たちの門
 エスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」(ヨハネ10:7-10)
 「わたしは門である」とイエスはおっしゃいます。イエスは、飼い主のいない羊たちのように迷っている人々を緑の牧場、「神の国」へと導く門だというのです。人間がどこかに至るための門だとは、一体どういう意味なのでしょう。
 最近、そのことを考えさせられる体験がありました。先日わたしのイエズス会での仲間の1人が、東日本大震災の被災地、釜石での1週間ほどのボランティアを終えて帰ってきました。帰ってくるとすぐに、彼は被災地の様子を生き生きとわたしたちに語ってくれました。釜石の町の大部分が泥や家屋の残骸で埋まっており、一言で復興といっても途方もなく時間と労力のいる作業だということ。復興のための作業を続けてる人たちの多くが、自分の家族や友達、住み慣れた家等を失った悲しみをこらえながら作業にあたっているということ。
 話を聞いているうちに、釜石の町を覆っている悲しみや苦しみ、その中で生きる人々のつらさなどがわたしの心に直に伝わってくるような気がしました。釜石には行ったことがありませんが、彼の話がわたしを釜石に連れて行ってくれたようでした。このとき、わたしにとって彼は釜石への門だったと言っていいでしょう。
 イエスが「神の国」への門であるというのも、同じようなことかもしれません。天の父がどれほど忍耐強く、寛大であるか。どれほど一人一人の人間を大切に思い、救いたいと望んでおられるか。御自身の故郷である「神の国」について語るイエスの言葉を聞いているうちに、わたしたちの心にまるで「神の国」に行ったかのような喜びや安らぎが溢れてゆきます。この地上にいながらにして、イエスはわたしたちを「神の国」へと連れて行ってくださるのです。その意味で、イエスは「神の国」に至る門だとはっきり言えるでしょう。
 聖書を開き、イエスの言葉に耳を傾けるたびごとに、わたしたちの心は「神の国」へといざなわれます。日々イエスという門、イエスの言葉が記された聖書という門から「神の国」に出入りし、「神の国」の喜びと安らぎのうちに生きてゆきましょう。
※写真の解説…六甲山牧場の羊たち。