バイブル・エッセイ(266)裏切ったのは誰か


裏切ったのは誰か
 そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言った。イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』」弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」(マタイ26:14-25)
 「生まれなかった方が、その者のためによかった」とイエスは言いました。いくら裏切り者のユダのことだとはいえ、これはあまりにもひどいと思われる方もいるかもしれません。一体、イエスはどんなつもりでこんなことを言ったのでしょう。ユダの滅びを願っていたのでしょうか。
 そうではないでしょう。全人類の救いのために遣わされたイエスが、誰かの滅びを願うとは考えられません。では、どう考えたらいいのでしょう。「その者のために」という言葉に手掛かりがあるように思います。イエスは、ユダが味わうことになるひどい苦しみを思い、ユダ自身のためにこの言葉を言われたのです。「そんな苦しみを味わうくらいなら、いっそ生まれてこなければよかったくらいだろう。なんて気の毒な」というのが、この言葉の言外の意味ではないでしょうか。やがてその苦しみのあまり自殺することになるユダへの、深い慈しみと愛がこの言葉から感じられます。
 よく考えてみればイエスを裏切ったのはユダだけではありませんでした。最初にユダが裏切ってイエスを売り渡し、次に他の弟子たちもイエスを裏切って逃げ出したのです。最初に裏切ったためにユダだけが「裏切り者のユダ」という汚名を着ることになりましたが、実は他の弟子たちも「裏切り者のペトロ」であり、「裏切り者のヤコブ」だったのです。ユダ以外の弟子たちも、イエスを裏切ることでひどい苦しみを味わったことでしょう。その苦しみのひどさは、自分なんか生まれてこなければよかったと思うほどだったかもしれません。「生まれなかった方が、その者のためによかった」という言葉は、実はユダだけでなく、他の弟子たちにも当てはまることなのです。エスを否認したペトロに、捕縛を恐れて部屋に隠れていた弟子たちに、イエスはユダに向けたのと同じ慈しみの眼差しを向けていました。
 同じことがわたしたちにも言えます。イエスを裏切って人を裁き、差別し、貧しい人々に心を閉ざして自分の世界に閉じこもるとき、わたしたちの心はしだいに深い苦しみの中に落ちていきます。「自分なんか生まれてこなかった方がよかった」と思うことさえあるかもしれません。しかし、ユダでさえ見捨てることのなかったイエスは、そんなわたしたちのことを愛し、慈しみ深い眼差しでわたしたちを見ておられます。そのことを忘れないようにしましょう。
※写真の解説…3月26日の晩、六甲山上で一直線に並んだ金星、月、木星