バイブル・エッセイ(329)まっすぐな道


まっすぐな道
 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。(ルカ3:21-22)
 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」天から響いたこの言葉が、イエスの宣教活動の出発点となりました。イエスは自分が神の子であることを確信し、神の子として人々の前で力強く福音を証し始めたのです。今日、成人式の祝福を受ける皆さんにも、ぜひこの言葉を大人としての歩みの出発点にしていただきたいと思います。
 わたし自身も、この言葉を一つの出発点として人生の歩みを始めました。わたしが洗礼を受けたのは22歳のときでしたが、受洗を決意する決め手となったのが「神の子」という言葉だったのです。そもそものきっかけは、わたしが21歳のときに父が亡くなったことでした。頑丈な農夫で、病気一つしたことがなくなった父が、畑に出かけていく途中で心筋梗塞を起こして死んでしまったのです。冷たくなった父の遺体を前にして、わたしは人生の儚さを痛感しました。そして、わたしの人生は今のままでいいのかと自分に問いかけざるをえなかったのです。
 わたしは、人生に何か確かな拠り所が欲しいと思いました。それまでは若さを頼りにし、人生を思いのままに生きていこうと思っていましたが、人間は自分の命さえ自分の思うままにできないということが父の死によって分かりました。学歴や能力を頼りにという気持ちもありましたが、周りを見渡せばわたしなどより優れた人がいくらでもいて、それも確かな拠り所にはなりそうもありません。今は仲がいい友人たちも、大学を出ればきっとばらばらになってしまうでしょう。
 何よりもよくないのは、若さとか学歴、能力、友人などを持っているということを自分の拠り所にした場合、その持っているもの自体が自分を不幸にしてしまうということです。誰もが同じものを平等に持っているということはありえませんから、持っているということを拠り所にした場合、どうしても周りの人との比較や競争が生まれてきます。自分の拠り所であるそれらのものを守るためには、周りの人たちとのあいだに壁を作らざるをえないのです。その壁は、持てば持つほど高くなり、わたしを周りの人々から切り離して孤独にしていきます。持てば持つほど、わたしは一人ぼっちの苦しみを味わうことになるのです。
 そんな風に考えて悩んでいたときに、あるときわたしはたまたまキリスト教の神父さんが書いた本と出会いました。そこに書かれていたのは、「わたしたちは、誰もがかけがえのない価値を持った神の子だ」ということでした。何も持っていなくても、わたしたちは生まれながらに「神の子」であり、大切な存在だというのです。わたしは、自分が「神の子」であるという事実にこそ、人生の拠り所を置きたいと強く思いました。「神の子」であるということは、生まれによるものですから決して誰もわたしから奪うことが出ません。病気になろうが、大きな失敗をしようが、どんなことがあっても揺らぐことがない確かな拠り所です。
 それに、もっとすばらしいと思ったのは、「神の子」であるという事実はすべての人に平等に当てはまるということです。自分が「神の子」であることに人生の拠り所を置いている限り、わたしたちは自分の人生の価値を確信すると同時に周りの人々の人生も大切にすることができます。誰もが「神の子」であるという事実は、わたしたちの間に兄弟姉妹としての思いやりや優しさを育み、わたしたちを結び付けていくのです。
 「神の子」としての人生の価値は、どれだけたくさんのことを成し遂げたかではなく、どれだけ「神の心に適う者」として生きられるかということにあります。当時読んで感動したトルストイの短編『光あるうちに光の中を歩め』の中に、そのことは次のような言葉ではっきりと書かれていました。
「神の前では、人生に小さいものも大きいものもない。ただ、まっすぐなものと曲がったものとがあるばかりだ。」
 神の大いなる栄光を前にしては、人間が地上で成し遂げたことなどどれも無に等しく、小さい大きいなどと論じ合うこと自体が無意味だ。神の前では、わたしたちがどれだけ神の御旨に忠実に、互いに助け合い、赦しあいながらまっすぐな人生を生きられたかどうかだけが問われるというのです。わたしたちは、大きな人生ではなく、迷いのないまっすぐな人生をこそ選びたいと思います。神の御旨に忠実に、神の光の中を歩き始めましょう。

光あるうち光の中を歩め (新潮文庫)

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※写真の解説…カトリック六甲教会のベランダから見た朝の神戸。