バイブル・エッセイ(412)『天の国の門』


『天の国の門』
 エスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ16:13-19)
 イエスはペトロに、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」と言いました。ペトロを初代の教皇とするキリストの教会が、誕生した瞬間です。イエスのこの言葉を受け、今でも教皇様の紋章に必ず鍵が入っています。
 「天の国の鍵」を授けるとはどういうことでしょう。「天の国」が何であるかを考えてみれば分かると思います。「天の国」は、わたしたちの想像をはるかにこえた「世の終わり」だけにやって来るのではありません。「天の国は、あなたがたの間にある」とイエス様はおっしゃっています。「天の国」は、愛し合うわたしたちの交わりの中に、いまこの教会の中にあるのです。「天の国」の鍵をあけ、「天の国」の門を開くとは、心を開いてすべての人をこの交わりの中に招くということでしょう。開かれたわたしたちの心こそ、開かれた天の国の門なのです。
 先日、韓国でフランシスコ教皇にお会いしましたが、教皇様はまさに「開かれた天の門」のような方でした。慈しみに満ちた笑顔を通して、大きな身振り手振りを通して、全身で愛を表現される方。すべての人々を教会の交わり、愛の交わりへと招き入れる方。それが、教皇様からわたしが受けた印象です。教皇様のお姿を見ているだけで、わたしは本当に神から愛されている、神の国、教会の一員なんだということをはっきり実感することができました。教皇様の笑顔は、信者だけに向けられたものではありません。教皇様は、今回の訪韓を通して、アジアのすべての人々を神の愛の交わり、教会の交わりへと招いたのです。全アジアに向かって、天の国の門を大きく開いたのです。
 わたしたちも、この教皇様の姿に倣いたいと思います。天の国の交わりに加えられたわたしたち、教会の愛の交わりの中に加えられたわたしたちには、心を開いてすべての人をこの愛の交わりの中に招く使命、天の国の門を開く使命が与えられているのです。わたしたちの笑顔、自分のことを一切考えない無私の奉仕などを通して神の愛が地上に流れ出すときこそ、天の国の門が開かれるときなのです。人々は、開かれたわたしたちの心の門を通って、このすばらしい愛の世界に足を踏み入れたい、わたしたちの仲間になりたいと思うに違いありません。
 教皇様は、アジアン・ユース・デーの中で若者たちこそ、教会の未来であり、今であると力強く語られました。若者たちが、教会の一員として、天の国の門を力強く開いていく場面を、昨日、目の当たりにしたのでその体験をお話ししたいと思います。広島の土砂災害被災地でのことです。昨日から現地の社会福祉協議会がボランティアの募集を始めたのを受け、猪口神父様を始めとする広島教区の青年たちが、ボランティア活動に参加したのです。わたしもくっついて行ったのですが、若者たちの働きぶりには本当に感動しました。炎天下で、何十キロもある土嚢を黙々と運び続ける姿、被災者の皆さんに明るく話しかける姿には、「苦しんでいる人のためには、何かせずにいられない」「何とかして被災者の皆さんを励ましたい」という思いがあふれ出していました。彼らの姿を通して、神の愛が被災地にあふれ出したのです。キリスト教という看板はでていなくても、「天の国」の門が昨日、土砂災害の被災地で大きく開かれたことは間違いありません。
 教皇様に倣い、また屈託なく信仰を生きる若者たちに倣って、わたしたちも「天の国」の門を開く使命、心を大きく開いて、すべての人を愛の交わりに招く使命を果たしてゆくことができるように祈りましょう。