バイブル・エッセイ(445)『互いの足を洗う』


『互いの足を洗う』
 過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。(ヨハネ13:1-8)
 最後の晩餐の席で、弟子たちの足を洗おうとしたイエス。頑なに拒むペトロに向かって、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と厳しいことを言っています。なぜ、足を洗ってもらわないなら、イエスと何のかかわりもないことになってしまうのでしょう。イエスに足を洗ってもらうということの意味を考えてみましょう。
 足を洗ってもらうための一つ目の条件は、自分の足が汚れていることに気づいていることです。どんなに足が汚れていたとしても「そんなことはない、わたしの足はきれいだ」と言い張る人は、決してイエスに足を洗ってもらうことができません。足を洗ってもらうためには、自分の汚れを素直に認める謙虚さが必要です。自分の汚れを素直に認められる謙虚な人だけが、人生の歩みの中で怒りや憎しみ、あせり、不安、いらだちなどによって汚れてしまった心を、素直にイエスに差し出すことができるのです。
 足を洗ってもらうためのもう一つの条件は、足が汚れているのを恥じないことです。「こんな足、大切なイエス様にお見せすることはできない」という気持ちはわかりますが、それはまだイエスを十分に信頼していない証拠です。イエスは、わたしたちがどれほど汚れた心を差し出したとしても、決して目を背けたり、非難したりすることはありません。むしろ、イエスはわたしたちの足を洗いたくて、洗いたくて仕方がないのです。イエスはそれほどまでにわたしたちを愛して下さっているのです。足を洗ってもらうためには、そのイエスの愛を信じることが必要です。
 ペトロに向かって「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」とイエスが言ったことの意味が、これで少しわかったと思います。エスの弟子にふさわしいのは、イエスに足を洗ってもらうことができる人、すなわち、自分の弱さや欠点を素直に認められる謙虚さを持っている人、イエスを信頼して、恥じることなく自分の弱さや欠点をさらけ出せる人だけなのです。そのような人だけが、イエスの愛を知り、どこまでもイエスの後についてゆくことができるのです。
 イエスに足を洗ってもらうことで、わたしたちは人の足を洗うことができる人に変えられてゆきます。足を洗ってもらうことによって、わたしたちは、自分自身の弱さや欠点をありのままに受け入れられる人、相手の弱さや欠点もありのままに受け入れられる人に変えられてゆくのです。エスの愛の中で、互いの足を洗い合える共同体、自分の弱さや欠点を受け入れ、相手の弱さや欠点も受け入れ合える共同体に変えていただくことができるように祈りましょう。