バイブル・エッセイ(446)『ゆるしの使命』


『ゆるしの使命』
 エスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。(ヨハネ19:28-30)
 十字架を見ると、わたしたちはつい目を背けたくなってしまいます。傷だらけのイエスの、痛ましい姿だけに目をとめてしまうからです。十字架を見上げるとき、外見の苦しみや痛みだけを見てはいけないと思います。その向こう側にある、イエスの深い愛に目を向けたいと思います。
エスは、なぜ手向かうことなく十字架につけられ、死んでいったのかを考えれば、イエスの愛の一端を知ることができるでしょう。イエスは、なぜ手向かわなかったのか。反撃しなかったのか。それは、罪を犯している人間たちの弱さを、よく分かっていたからです。エスは、罪の闇に呑みこまれ、悪事を働かずにいられない人々をあわれみ、ゆるしたのです。
 エスは、人間のすべての罪をゆるし、その意味で、すべての罪を背負って死んでゆかれました。そして、復活することによって、神の愛がそれらすべての罪を包み込み、消し去ってしまうほど大きなものであることを示されたのです。神がゆるせない罪などありません。何をしたとしても、悔い改め、神の前に跪きさえすれば、必ずゆるしていただくことができる。神の愛の温もりの中で、復活の命を生きることができる。それこそが、キリスト教の救いなのです。
 十字架上で息を引き取る直前、「成し遂げられた」とイエスは言いました。そのとき、イエスはどんな表情だったでしょう。その顔は、苦悶に歪んでいたでしょうか。むしろ、ザビエル城の十字架のイエスのように、かすかなほほ笑みを浮かべていたに違いないと思います。自分を裏切った弟子たちをゆるし、いままさに、自分を殺そうとしているローマ兵たちをゆるしたとき、イエスはご自分の使命、すべての人を愛し、救う使命をまっとうされました。「それでも、わたしはあなたたちを愛している」、イエスは最後のほほ笑みによって、人々にそう語りかけていたに違いありません。
 すべての罪をゆるしてくださるイエスの愛に信頼しましょう。日々、イエスを裏切り続けるわたしたちを、イエスはそれでもゆるしてくださっているのです。わたしたちがイエスの愛に気づかないまま罪の闇の中にいるときにでも、イエスはわたしたちをゆるし、愛して下さっているのです。「それでも、わたしはあなたを愛している」とほほ笑んでくださっているのです。
 この愛に触れることから、わたしたちの回心が始まります。回心したから愛してもらえる。回心しなければ愛してもらえない、だから回心するというわけではないのです。エスがこれほどまでに愛してくださっているという事実に気づき、その愛に心を動かされるとき、わたしたちの心は回心せずにいられなくなるのです。十字架礼拝の中で、痛ましいお姿の向こう側にある、イエスの深い愛に触れることができるように祈りましょう。