こころの道しるべ(81)特別な力

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特別な力

相手の欠点を見つけ出すのが得意でも、
それは何の自慢にもなりません。
人間が欠点だらけなのは
当たり前だからです。
どれだけ欠点だらけの人の中にも、
必ずいいところを
見つけ出すことができる力。
それこそ、讃えられるべき特別な力です。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(984)愛に立ち返る

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愛に立ち返る

 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」(マルコ7:1-8、14-15、21-23)

 律法に背いていると言って弟子を非難する人たちを、イエスは「偽善者」と呼び、「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」とたしなめました。彼らの行動は、一見、神の御旨に従っているようだけれど、その心は神から遠く離れているというのです。律法をまじめに実践しているのに、心は神から離れているとは、いったいどういうことでしょう。

 そもそも、律法が何のために定められたか考える必要があると思います。律法の究極の目的が、神を愛すること、そして神の愛を実践することにあるのは間違いがないでしょう。エスが言う「神の掟」とは愛の掟であり、ヤコブが「御言葉を行う人になりなさい」と言うときの「御言葉」とは、神の愛に他ならないのです。このいちばん大切な目的が忘れられるとき、律法はただの形だけのルール、「人間の言い伝え」になってしまいます。神を愛するため、隣人を愛するためではなく、自分自身を人の前でよく見せるためだけの行動、いわゆる「偽善」になってしまうのです。

 これは、本当によくあることだと思います。たとえば、最近わたしたちは、どこに行っても手指の消毒をします。これは本来、自分自身を、そして自分が愛する家族や身近な人達をウイルスから守りたいという愛から生まれる行動のはずです。ですが、慣れてくると、その本来の目的は忘れられ、形だけチャッチャッとやる。見ている人から非難されないために、「あの人は意識が高い」と人から思われるためにやるということになりがちです。そのようなことだと、消毒液はしだいに片隅に追いやられ、やがて誰もまじめに実践しなくなるに違いありません。

 社会のルールにしても、神さまが定めた掟にしても、その根底にあるのは、互いを思いやる愛だとわたしは思います。形だけ残って、愛が片隅に追いやられるとき、その形は自分をよく見せるためだけの偽善となり、かえって社会を住みにくい場所にするし、教会を居心地の悪い場所にしてしまうのです。

 イエスは、手を洗うというルールを例にあげて、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚す」と指摘します。どんなによく手をあらっても、そのことによって心の中に傲慢や悪意、怒りなどが生まれてくるなら、かえってその人は汚れてしまうというのです。汚れとは、神の愛を踏みにじり、自分さえよければいい、自分の思ったとおりにすべてを動かしたいと願う人間のエゴイズムのことだと考えたらよいでしょう。偽善に陥るとき、わたしたちはルールを守ることによって、かえって神さまから遠ざかってしまうのです。

 ルールを守ることによって神さまのことを思い出し、心を神への愛で満たすとき、初めてわたしたちは清らかなものとなります。ルールを守らない人を見下すなら、かえってわたしたちの心は汚れてしまうのです。偽善に陥ることがないよう、いつも原点である神さまへの愛、隣人への愛に立ち返って考えられるよう祈りましょう。

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こころの道しるべ(80)物語の意味

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物語の意味

物語は、
途中で終わってしまえば
意味がありません。
最後まで書き上げたときに
意味が生まれるのです。
わたしたちの人生もそれと同じ。
意味があるから
生きるのではありません。
最後まで生き抜くからこそ
意味が生まれるのです。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(983)命の息

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命の息

 弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(ヨハネ6:60-69)

「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」とイエスは言います。イエスの言葉や行いから霊を受けとった者、イエスが「永遠の命の言葉」を持っていると気づいた者だけがイエスのもとに残るということでしょう。では、霊とはいったいなんでしょう。わたしたち自身は、イエスの言葉から霊を受け取っているでしょうか。

 創世記の中に、神がアダムの鼻に「命の息」を吹き込んだときアダムは「生きる者となった」と記されています。アダムを生きる者としたこの「命の息」こそ、神の霊だと考えてよいでしょう。土塊にすぎなかった人間に、「命の息」が流れ込んだとき、人間は生きる者となったのです。わたしは、この「命の息」は神さまの愛だと思っています。絶望の闇の中で生きる力を蘇らせてくれるもの、もう一度立ち上がるための力を与えてくれるもの、わたしたちの全身を満たして、日々の歩みを支えてくれるもの、それは神さまの愛以外にないからです。

 イエスの言葉は、まさにこの息だったと考えられます。イエスの口から出る言葉は、人間に命を吹き込む「命の息」だったのです。言葉だけではありません。イエスの行いや人柄、イエスの存在そのものが、神の口から出た「命の息」だったのです。イエスが人々にパンを割いて与えたときにも、イエスを通して人々に命の風が吹きました。イエスから受け取ったパンを感謝して食べた人たち、「こんなわたしにも、神さまはこれほど豊かにパンを与えてくださる」と喜びの涙をこぼしてパンを味わった人たちは、その風をしっかり受け止め、神さまの愛で心を満たされて、生きる力を、命を与えられたのです。

 しかし、イエスの周りに集まった人たちの中には、そのことに気づかず、「命の息」を受け取れない人たちもいました。単に、パンを食べて腹を満たすためだけに集まった人たち、自分の肉体的な欲求を満たすためにイエスを利用しようとして集まった人たちもたくさんいたのです。そのような人たちは、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲まなければ、あなたたちのうちに命はない」というイエスの言葉を理解できず、イエスのもとを去っていきました。彼らは、イエスご自身こそがパンであること。イエスからあふれ出す神の愛こそが、わたしたちを生かす本当の力であることに気づいていなかったのです。

 さて、わたしたちはどうでしょうか。神から恵みを頂いたときに、どのような受け取り方をしているかを見れば、そのことがわかると思います。たとえば食前の祈りをするとき、わたしたちは、食べ物でお腹がいっぱいになることだけに感謝しているでしょうか、それとも神さまがわたしたちを愛し、豊かな恵みで満たしてくださることにも感謝しているでしょうか。人との出会いに恵まれて楽しい時間を過ごせたとき、楽しかったことだけを感謝しているでしょうか、それとも、そのような出会いを与えてくださった神さまの愛にも感謝しているでしょうか。ペトロと共に、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」と言えるよう、日々の生活の中で、イエスからあふれ出す愛の息吹をしっかり受け止められるように祈りましょう。

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こころの道しるべ(79)豊かな人間関係

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豊かな人間関係

思い上がった人は、
自分以外の人間は誰も
似たり寄ったりだと考えますが、
謙虚な人は、相手の中に
自分にはない素晴らしさを
見つけることができます。
その人と出会えたことを心から喜び、
豊かな人間関係を作り出せるのです。

『やさしさの贈り物~日々に寄り添う言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(982)感謝の喜び

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感謝の喜び

 エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」(ルカ1:41-55

 聖母マリアが、エリザベトを訪問する場面が読まれました。この場面でとても印象的なのは、全体を満たした喜びです。「胎内の子は喜んでおどりました」と言うエリザベトの声は喜びに弾み、「救い主である神を喜びたたえます」と言うマリアの声は喜びに満たされていたに違いありません。読んでいるうちに、二人の喜びが心に流れ込んできて、こちらまでうれしくなってしまう。そんな場面です。

 誰かが喜んでいるのを見るとき、その喜びが自分の心にまで流れ込んでくる。相手の喜びが、まるで自分のことのようにうれしく感じられる。そんなことが時々あります。最近ならばオリンピックでしょう。メダルを受け取る選手たちの喜びに満ちた笑顔を見て、まるで自分のことのようにうれしくなった。心からの拍手を送らずにいられなくなったという人は多いでしょう。選手たちのすがすがしい笑顔と、わたしたちの心にまっすぐに流れ込んでくる喜びは、マリアとエリザベトの喜びと共通するものがあると思います。それは、どちらの喜びも、謙虚さの中から生まれた感謝の喜びだということです。彼ら、彼女たちの笑顔は、「自分はこんなに優れた人間なんだから、恵まれて当然」というような勝ち誇った笑顔ではなく、「こんなわたしに、これほどの恵みがあたえられるなんて信じられない」という謙虚な心から生まれる感謝の笑顔だったのです。

 そのような笑顔、そのような喜びは、見る人の心も喜びで満たしてゆきます。一人の喜びが何人もの人を笑顔にし、ときには何千、何万もの人を勇気づけるのです。「こんなわたしを、救い主のお母さまが訪ねてくださるなんて」というエリザベトの喜び、「こんなわたしが、救い主の母に選ばれるなんて」というマリアの喜びが、時代を越えてどれほどたくさんの人たちの心を喜びで満たしたか、それは想像もつかないくらいです。感謝から生まれる喜びは、天国からあふれ出した喜び、すべての人を幸せにする喜びだと言ってよいでしょう。

 周りの人を幸せにするだけではありません。謙虚さから生まれる感謝の喜びは、自分たちの心にも深く沁み込んでゆきます。「わたしはこんなに優れた人間だ。恵まれて当然」というような喜びはすぐに消え去り、心に虚しさだけを残しますが、「こんなわたしに、これほどまでの恵みが与えられるなんて信じられない」という喜びは、深く心に刻まれて、思い出すたびごとにわたしたちの心を喜びで満たしてくれるのです。そのような喜びは、神さまがわたしたちの一生を支えるために与えてくださった「天からのパン」だと言ってよいでしょう。

 うれしいことがあったときに、自分がどのように喜んでいるかを振り返ってみたいと思います。そのうれしいことを、自分の力で勝ち取った当然のこととして喜ぶか、それとも、神さまから与えられた恵みとして受け取り、感謝して喜ぶか。それによって喜びの性質はまったく変わってしまうのです。マリアとエリザベトにならい、すべての恵みを天からの恵みとして感謝して受け取ることができるよう、心を合わせて祈りましょう。

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こころの道しるべ(78)力をとっておく

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力をとっておく

先のことを心配していると、
実際に起こっていないことのために
心が消耗してしまいます。
起こっていないこと、
起こらないかもしれないことのために
疲れ果てるほど、
無駄なことはありません。
何かが起こるまで、
その力をとっておきましょう。

『やさしさの贈り物~日々に寄り添う言葉366』(教文館刊)

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