バイブル・エッセイ(981)天からのパン

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天からのパン

 そのとき、ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(ヨハネ6:41-51)

 「わたしは天から降って来たパンである」とイエスは言います。しかし、人々は「これはヨセフの息子のイエスではないか」と言って、この言葉を受け入れませんでした。イエスは人間として母マリアから生まれてきたので、雲に乗って天から下りて来たわけではありませんから、人々がそう言うのはもっともなことでしょう。イエスが「天から降ってきたパン」であるとは、一体どういう意味なのでしょう。

 何かが「天から降ってきた」という気持ちになることは、わたしたちでもときどきあるでしょう。わたしの体験で言えば、たとえば、説教や講義の準備をするとき、「神さま、いまから出会う人々に、わたしを通してあなたが語りかけたいと思っておられる言葉をお与えください」と祈っていると、ふっと言葉が「天から降ってきた」、あるいは心の奥深いところから湧き上がってきたという気持ちになることがあります。自分のことを脇に置き、ただ人々のために自分を神の前に差し出すとき、わたしたちの心が愛で満たされているとき、神はわたしたちの心に天からの言葉を与えてくださるのでしょう。神さまのため、人々のために自分を差し出すとき、神さまはわたしたちの心を恵みで満たしてくださるのです。

 イエスは、三位一体の愛の交わりの中で父なる神と一つに結ばれていますから、いつもそのような天からの言葉に満たされていたと考えられます。言葉だけでなく、イエスの表情やしぐさ、行いは、すべて天から降ってきた神の愛で満たされていたのです。父なる神は、私利私欲を求めず、ただ人々への愛のために生きたイエスの心に、愛を惜しみなく注ぎ続けておられたと言ってもよいでしょう。エスと出会う人は、イエスの言葉やしぐさ、行いからあふれ出す神の愛を味わい、そこから生きるために必要な勇気や力、慰めを受け取りました。そのような意味で、イエスは「天から降ってきたパン」だったと言えるのではないでしょうか。私利私欲なく、いつも神の愛で満たされていたイエスは、人々に生きるために必要な力を与える「生きたパン」だったのです。

 何より大切なのは、イエスというパンをよく味わうことです。聖書に記されたイエスの言葉や行いをよく思い巡らし、そこに込められた神の愛を心でしっかり受け止め、生きる力に変えてゆくのです。そして、心が神の愛で満たされたなら、今度はわたしたち自身がパンとなって人々に自分を差し出してゆく番です。神の愛がたっぷり込められた言葉や行いによって、人々に神の愛を分かち合ってゆくのです。自分の利益を求める不純な心が取り除かれてゆけばゆくほど、わたしたちは神の愛で満たされた、栄養たっぷりのパンになっていきます。自分自身を、栄養たっぷりのおいしいパンとして相手に差し出すことができるように、そのために必要な恵みを「天から降ってきたパン」であるイエスからしっかり受け取ることができるように、心を合わせてお祈りしましょう。

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こころの道しるべ(77)98%の恵み

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98%の恵み

わずか2パーセントの嫌なことのために、
残り98パーセントの恵みを
台無しにする必要はありません。
嫌なことを思い返して
憎しみを募らせるより、
楽しかったことを思い出して
感謝しましょう。
憎しみではなく、
喜びの中で1日を終わりましょう。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(980)永遠の命に至る食べ物

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永遠の命に至る食べ物

 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。(ヨハネ6:24-35)

「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」とイエスは言います。「朽ちる食べ物」とはわたしたちの欲望を満たす地上の食べ物、すなわち富や財産、名誉、権力など、「永遠の命に至る食べ物」とはわたしたちの心を満たす神の愛と考えたらよいでしょう。地上の食べ物をどれだけ手に入れたところで、わたしたちは決して幸せになれない。神のため、人々のために自分を差し出し、神の愛に満たされたときにのみ、わたしたちは本当の幸せを味わうことができる。エスは、わたしたちにそのことを教えているのだと思います。

 今年は聖イグナチオの回心から500年を記念する「聖イグナチオの年」ですが、聖イグナチオの自伝の中にこんなエピソードがあります。彼は王のために最前線で戦う勇敢な兵士でしたが、戦争で大砲の玉に足を砕かれ、療養しているとき、あることに気づきました。高貴な婦人に仕えるというような世俗的なことを考えると、そのときは楽しいが、後に虚しさが残る。しかし、神のために自分を捧げる巡礼や苦行のことを考えると、「考えているあいだ慰めを覚えるばかりでなく、考えを止めたあとまでも満足感や喜びが残る」ということです。このことに気づいた聖イグナチオは、地上のものを追い求めることの虚しさを悟り、それ以降、ひたすら神のために自分を捧げ尽くす人生を思い描くようになります。神のために自分を捧げ尽くすときにこそ、人間の心は愛と恵みで満たされる。これが、聖イグナチオの生涯を変えた大きな発見でした。

 聖イグナチオのこのエピソードは、地上の食べ物が「朽ちる食べ物」であり、神の愛こそが「永遠の命に至る食べ物」であることの意味を、わたしたちに分かりやすく教えてくれると思います。実際、わたし自身の経験の中でも、確かにこのことは言えるのです。たとえば、よく考えられた説教をして、信者さんたちから褒められる。そのことは、わたしをうれしい気持ちにしてくれます。ですが、しばらくすると、「困ったな、来週も褒められるような説教をしないと」とか、「どうせ人の評価なんかすぐに変わるんだから」といった、不安や迷いがやってきて、心に虚しさが生まれるのです。それに対して、できはともかく、信者さんたちに神の愛を伝えたい一心で何時間もかけて説教を書きあげたとき、その説教を聞いて、一人でも喜んでくれる人がいたときには、心は愛と恵みで満たされます。その愛と恵みは、心に深く刻まれて、いつまでも消えることがありません。自分を生かす命の糧となって、心にいつまでも残るのです。

「わたしが命のパンである」と、イエスは力強く宣言します。エスの言葉と生涯をよく噛みしめて味わい、イエスに倣って神と人々への愛に生きるとき、わたしたちの心は愛と恵み、喜びと力でいつも満たされ、飢えることも、渇くこともないのです。「朽ちる食べ物」ではなく、「永遠の命に至る食べ物」であるイエスのために生きられるよう、聖イグナチオのとりなしをねがいつつ共に祈りましょう。

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バイブル・エッセイ(979)すべてを差し出す

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すべてを差し出す(聖イグナチオ記念日)
 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」(ルカ14:25-33)

「塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか」とイエスは言います。十分な費用がなければ、途中までしか建てられず、恥をさらすことになるからです。この話と、前後の「父、母、妻、子ども」を憎まないなら弟子でありえないとか、「自分の持ち物を一切捨てなければ」弟子でありえないという話がどうつながるのか、ちょっとわかりにくいところです。ですが、建てようとする塔を修道生活と考えると、つながりが見えるように思います。塔が修道生活だとすれば、「十分な費用」とは、生涯を捧げる覚悟。イエスのために、自分のすべてを残らず差し出す覚悟なのです。

 わたしはまだ、修道生活に入って23年に過ぎず、平均寿命まで生きるとすればあと30年分くらい塔を積み上げなければなりません。まだ半分にも達していないというところです。しかし、その程度の年月であっても、塔を積み上げることはなかなか困難でした。もちろん自分のすべてを神に差し出す覚悟で修道生活に入りましたが、実際にはさまざまなことに執着し、その度ごとに身が引き裂かれるような苦しみを味わいながらここまで来たという感じです。マザー・テレサが、「主よ、もしあなたがわたしを引き裂くなら、引き裂かれた肉の一片に至るまですべてあなたのものです」と言っていますが、わたしが神にすべてを差し出すとすれば、まさに引き裂かれたわたしの断片を拾い集めてすべて差し出すということになるかもしれません。

 マザーのこの言葉は、イエズス会の前総長ニコラス神父もよく引用しておられたので、イエズス会の精神に通じるものがあるのでしょう。聖イグナチオの有名な『すべてを取り上げ、受け入れてください』(スシペ)の祈りの中に、「主よ、取り上げ、受け入れてください。私の一切の自由を、記憶を、理解を、意思を」という言葉がありますが、これも、自分のすべてを一片残らずあなたに差し出しますという思いの現れと考えられます。これまで着ていた服や使っていた剣も含めてすべての持ち物をイエスのために捨てたイグナチオは、今度は自分の心を隅々まで残らず差し出したいと考えたのでしょう。

 では、なぜそこまでしてイエスにすべてを捧げたいと願うのでしょうか。どうしたら、そこまでの覚悟をし、修道生活という塔を最後まで立派に積み上げることができるのでしょうか。それは、自分のすべてを差し出したときにのみ、修道誓願を通して自分を十字架にかけたときにのみ、わたしたちの心を神の「愛と恵み」が豊かに満たすと知っているからです。それはまさにわたしたちにとって最高の幸せであり、その幸せのためならすべてを差し出してもまったく惜しくない。それこそが、イエスの弟子に求められている覚悟なのだと思います。これは、修道生活だけでなく、すべての信徒の、それぞれに与えられた使命にも当てはまることでしょう。わたしたちは、自分に与えられた使命を通して、イエスに自分のすべてを差し出すことによってのみ最高の幸せに到達することができるのです。聖イグナチオの記念日にあたって、わたしたちがその覚悟を新たにすることができるよう、聖人のとりなしを願って共に祈りましょう。

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こころの道しるべ(76)1日5分の祈り

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1日5分の祈り

1日のうち5分でも祈るなら、
残り23時間55分の質が
まったく変わります。
悲しみを喜びに、絶望を希望に、
不満を感謝に、心配を信頼に変えるもの、
それが祈りなのです。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(978)味わい尽くせない恵み

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味わい尽くせない恵み

 エスガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。(ヨハネ6:1-15)

「人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった」とヨハネ福音書は伝えています。エスは、わたしたちに、食べきれないほどたくさんの恵みを与えてくださる。あるいは、神さまが与えてくださる恵みを、わたしたちはどんなに頑張ってもすべて味わいつくすことはできないということでしょう。神さまが与えてくださる恵みのパンは、ほんのひとかけら食べただけでもわたしたちのお腹を満たすほど豊かで、一生かけてもすべて味わいつくすことはできないのです。

 その一番よい例が聖書でしょう。イエスがわたしたちに残してくださった御言葉のパンは、その一つひとつに神さまの愛がぎっしり詰まっていて、一回の黙想でしっかり味わえるのはせいぜい一節くらい。その同じ一節も、しばらくしてから読み直すとまた別の味わいが出てきますから、福音書だけとっても、わたしたちは決して味わいつくすことができないでしょう。一生食べ続けたとしてもたくさんの「パンの屑」が残るし、むしろ残ってしまう部分の方が多いくらいなのです。

 神さまがくださる恵みのパンは、どれも恵み豊かで味わい深く、すべて味わいつくすことができません。たとえばいまは夏ですが、この夏という季節も、味わいつくせないほど豊かな恵みに満たされています。たとえば、毎年食べるスイカも、どの畑でとれたか、日照に恵まれた年だったかなどの理由で味は変わってゆきます。どんな状況で、誰と一緒に食べたかによっても味わいは変わってくるでしょう。年を経るにつれて、自分自身の味覚や嗜好が変わってくることもありえます。イカという一つの恵みさえ、年ごとに味わいは変わり、一生かけてもすべて味わいつくすことができないのです。

 人との出会いの恵みも同じです。よく知っているはずの人でも、改めて話を聞くと、これまでまったく知らなかったような昔話が出てきて相手への印象が変わったり、自分が苦しい状況に追い込まれたとき、これまで見せてくれなかったようなやさしさを見せてくれたり、そんなことはよくあります。人生経験を重ね、自分自身の受け止め方が変わることもあるでしょう。神さまが結びあわせてくださった一人の家族、出会わせてくださった一人の友人さえ、わたしたちは一生かけても知りつくすことができないのです。

 ご自分が与えるパンについて、「彼らは食べきれずに残す」と主なる神が断言したとエリシャは伝えています。わたしたちは、せっかく神さまがくださった恵みを食べ残していないかよく確かめる必要があるでしょう。聖書の言葉にしても、自然の恵み、人との出会いにしても、その中に込められた神さまの愛は限りなく深く、恵みは豊かで、わたしたちは一生かけても食べつくすことができないのです。まだ食べるものは十分あるのにそのことを忘れ、もっともっとと願って食べ残すようなことがあっては、神さまに申し訳がありません。頂いた恵みを、感謝して丁寧に味わうことができるよう、残った「パンの屑」まで、すべて無駄にすることがないよう神さまに祈りましょう。

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こころの道しるべ(75)愛し、愛される

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愛し、愛される

与えるだけの愛も、
受け取るだけの愛も不完全です。
真実の愛は、
愛し、愛される
交わりの中にこそあるのです。
愛することに忙しい人は、
愛されるための時間をとりましょう。
愛されるばかりの人は、
愛するための時間をとりましょう。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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