こころの道しるべ(115)いま出来ること

いまできること

「これからどうなるんだろう」
と心配ばかりしていれば、
大切な今を無駄にしてしまいます。
そんな時間があれば、
「自分は、今できること、今すべきことを
きちんとしているだろうか」
と考えましょう。
未来は、今の延長線上にしかないのです。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(1026)声を聞き分ける

声を聞き分ける

 そのとき、イエスは言われた。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」(ヨハネ10:27-30)

「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」とイエスは言います。羊であるわたしたちの側から言えば、イエスの羊になりたいなら、イエスの声を聞き分ける必要があるということです。日々の生活の中で判断に迷い、「神さま、どちらを選んだらよいのでしょうか」と祈るとき、わたしたちの心にいくつもの思いが去来します。そんなとき、どうしたらイエスの声を聞き分けられるのでしょう。悪い者の誘惑を退け、イエスの後についていくためにはどうしたらよいのでしょう。

 イエスの声を聞き分けるために、大切なことが3つあると思います。1つ目は、自分の思いを手放すということです。自分としてはこちらの方が好ましいと思える選択肢があったとしても、いったんそれは手放し、まったく白紙の状態でイエスの声に耳を傾けるのです。聖母マリアは、天使のお告げを聞いたとき、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりになりますように」と答えました。「自分ははしために過ぎませんから、どの道が正しいのか分かりません。ただ、あなたの導きを信じてついて行きます」ということです。わたしたちも、同じようにすべきでしょう。羊に過ぎないわたしたちに、羊飼いの思いが理解できるはずがないからです。イエスの声を聞き分けるためには、「自分には何もわからない」というこということを前提に、謙虚な心で耳を傾ける必要があるのです。

 2つ目は、心の奥深くから聞こえてくる、小さな声に耳を澄ますということです。わたしたちを誘惑しようとする声は、ほとんどの場合、大きな声で話しかけてきます。誘惑する者は、わたしたちの心の表面にある欲望、妬み、恐れなどを使って話しかけてくるので、その声は大きく聞こえるのです。それに対して、イエスの声は、心の奥深くから聞こえてくる小さな声です。イエスの声を聞きとり、イエスの声に従いたいなら、耳を澄まして、心の奥深くからささやく小さな声を聞き取る必要があります。

 3つ目は、選んだときに、心の底から喜びや希望、力が湧き上がって来る声を選ぶということです。心の底から喜びや希望、力が湧き上がるのは、心が愛で満たされたときですから、わたしたちを愛に導く声を選ぶと言い換えてもいいでしょう。もし自分の望んでいないことであったとしても、それを選ぶと決めたときに、心の奥深くから喜びや希望、力が湧き上がって来たなら、それこそ、その声がイエスの声であることの何よりのしるしです。

 心の奥深くから静かに響くイエスの声、それはわたしたち自身の心の声でもあります。自分の心の奥深くにある神秘的な部分、イエスが宿る聖なる神殿から響いてくる声は、わたしたち自身の声であると同時に、イエスの呼びかける声なのです。イエスの声に従うとは、普段、忙しさに追われたり、欲望に引きずられたりして聞くことのない自分自身の本当の気持ちに耳を傾け、その気持ちに忠実に生きることだと言ってもよいでしょう。自分自身と向かい合い、イエスと向かい合いながら、イエスの導く声に従って生きてゆくことができるよう、羊飼いであるイエスの声を聞き分ける、よい羊になることができるよう、心をあせて祈りましょう。

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こころの道しるべ(114)すべてを変える力

すべてを変える力

祈っても何も変わらない
と言いますが、たった一つだけ
変わるものがあります。
それは自分自身です。
自分が変わればすべてが変わります。
祈りには、
すべてを変える力があるのです。

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バイブル・エッセイ(1025)共にいてくださる方

共にいてくださる方

 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。(ヨハネ21:1-14)

 ガリラヤ湖畔で、イエスが弟子たちと出会う場面が読まれました。この場面には、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されたイエスが、どのようにしてわたしたちと共にいてくださるかということがはっきり書かれています。イエスはいつもわたしたちと共にいて、わたしたちを見守り、導き、もてなしてくださる方なのです。

 この場面は、岸から弟子たちを見守っていたイエスが、弟子たちに、「子たちよ、何か食べる物があるか」と問いかけることから始まります。弟子たちの漁を父親のような気持ちで遠くから見守り、心配になって思わず、「大丈夫か。お腹を空かせてはいないか」と声をかけてしまう方。それがイエスだというのです。

 イエスは同じように、いつもわたしたちを見守っていてくださいます。父親が子どもを心配するような気持ちでわたしたちの様子を見守り、「疲れていないか、しっかり食べているか、よく眠れているか」とわたしたちのことを気にかけてくださっているのです。どんなに努力してもなかなか結果が出ない。誰も自分の努力を認めてくれず、心配してもくれない。そんなことが、わたしたちの人生にはときどきあります。しかし、そんなときでも、イエスだけはわたしたちを見捨てることなく、いつもあたたかなまなざしで見守り続けていてくださるのです。

 次にイエスは、「舟の右側に網を打ちなさい」と弟子たちに声をかけます。もしかすると弟子たちは、これまでの経験から「魚はきっと左側にいる」と思い込んでいたのかもしれません。そして、左側に投げ続けた結果何も獲れず、疲れ果て、漁をあきらめかけていたのです。そんな弟子たちにイエスは、思い込みを捨て、反対側に網を投げてみなさいとアドバイスしたのです。結果は、網が破れるほどの大漁でした。

 イエスは同じように、わたしたちも導いてくださいます。自分の狭い思い込みにとらわれ、どうしていいかわからなくなっているとき、イエスはわたしたちに、「試しに、その逆の方に投げてみなさい」とやさしくアドバイスしてくださるのです。「こうでなければだめだ」とか、「あの人だけは絶対にゆるせない」というような思い込みを捨て、「主よ、どうしたらよいでしょうか」と謙虚な心でイエスに問いかけるなら、イエスはきっと、わたしたちを導いてくださるはずです。

 最後にイエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と弟子たちに声をかけました。弟子たちが漁をしているあいだに、イエスはどこからかパンと魚を手に入れ、弟子たちのために準備して待っていてくださったのです。復活したイエスは、弟子たちをいたわり、弟子たちをもてなしてくださる方なのです。

 イエスは同じように、わたしたちももてなしてくださいます。1週間働いて疲れ切ったわたしたちをミサの食卓に招き、たくさんの恵みでもてなしてくださるのです。聖書の言葉を聞き、御聖体を頂き、仲間たちと心を一つにして祈る中で、わたしたちの心は、再び生きる力で満たされていきます。復活したイエスは、わたしたちをもてなし、生きる力を与えてくださる方なのです。イエスが見守り、導き、もてなしてくださるのですから、何も心配する必要はありません。復活したイエスと共に、この道を力強く進んでゆけるよう祈りましょう。

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こころの道しるべ(113)言い訳しない

言い訳しない

間違いを指摘されたとき、
言い訳して取りつくろえば、相手は
「この人は間違った上に
言い訳までする人だ」と思います。
言い訳せずに事実を認めるなら、
「この人は間違うこともあるが
信頼できる人だ」と
思ってくれるでしょう。

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バイブル・エッセイ(1024)感じとる力

感じとる力

 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。(ヨハネ20:19-31)

 イエスの復活を疑うトマスに、「見ないのに信じる人は、幸いである」とイエスは言います。わたしたちが一人で不安におびえ、涙を流しているときでも、イエスはわたしたちの隣にいる。わたしたちと共に苦しみ、わたしたちのために神に祈ってくださっている。たとえ見えなくても、そのことを信じられる人は幸いだということです。

 しかし、どうしたら目に見えないものを信じられるのでしょう。そのために必要なのは、感じとる力だと思います。姿は見えなくても、イエスの愛はわたしたちの身の回りの至るところに散りばめられているのです。たとえば、道端に咲いている一輪の花。その中にもイエスの愛が宿っています。道端の花を見て、「あっ、きれいだな」と思ったなら、立ち止まってその花をじっと眺めてみましょう。そうすれば、その花の美しさの中に、神の愛が宿っているのを感じられるでしょう。イエスはその花の中に確かに生きており、その花の美しさを通してわたしたちに語りかけておられるのです。

 外に出られないなら、自分自身の心をじっと眺めてみましょう。どんなにつらく、苦しいことがあったとしても、わたしたちの心の最も奥深いところには、必ず美しいものが宿っています。心身ともに疲れ果て、気持ちが荒みきっていたとしても、心の奥深くをのぞき込めば、そこに家族や友だちをいたわるやさしい心や、苦しんでいる人たちのために、自分を犠牲にしても何かしてあげたいと願う気高い心、すべての人と和解し、みんなと仲よく生きていきたいと願うやさしい心を、必ず見つけることができるのです。それこそ、わたしたちの中にもイエスが生きているということの何よりの証です。心の底から湧き上がる家族への感謝や、苦しんでいる人たちへのいたわり、和解と一致を願う心は、そのまま、わたしたちに対するイエスの呼びかけなのです。その声に気づくとき、わたしたちは、自分の心の中にも確かにイエスが生きていることを知るでしょう。復活したイエスは、わたしたちの心の一部として、いつもわたしたちと共にいてくださるのです。

 家族や友だちの心の中にも、イエスは必ずおられます。もし相手が不愛想な態度だったり、言いがかりをつけてきたりするような場合でも、その人の中にも、必ずイエスはおられます。落ち着いて相手をじっと見つめ、相手の話に耳を傾けるなら、わたしたちはやがて、相手の心の中から呼びかけているイエスの声に気づくでしょう。イエスはその人を通してわたしたちに、「どうかわたしに気づいてください。わたしを愛してください」と呼びかけているのです。その呼びかけに気づくとき、わたしたちは目の前にいるその人を愛し、イエスを愛さずにはいられなくなるでしょう。イエスはいつも、わたしたちの身近な人たちの中にいて、わたしたちと愛しあいたいと願っておられるのです。

 何より大切なのは、感じとる心です。目には見えない愛は、心で感じる以外にないのです。イエスの愛を感じとる心、それを祈りの心と呼んでもいいでしょう。祈りの心を研ぎ澄まし、生きているイエスの愛を日々感じながら暮らせるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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バイブル・エッセイ(1023)墓から出る

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墓から出る

 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。(ヨハネ20:1-9)

 ペトロともう一人の弟子が墓へ行ってみると、中には亜麻布だけが置かれていた。ヨハネ福音書はそう伝えています。墓にいないということは、イエスは汚れに満ちた死者の世界にはおらず、喜びと光に満ちた命の世界におられるということ。復活したということに他なりません。わたしたち人間の苦しみを担うため、十字架上で自分を神の手に委ねたイエスは、神の愛の中で永遠に生きているのです。

 「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されている」とパウロは言います。洗礼を受けるということは、古い自分に死ぬということですから、わたしたちはもう一度、死んだ人間なのです。しかし、死んだからといって墓の中にいるわけではありません。わたしたちの命は神の手に委ねられ、神の愛がこの地上に現れるとき、キリストの栄光と共にこの地上に現れる。そのような命に変えられたのです。愛するときにのみ、わたしたちは生きている。そう言ってもよいでしょう。

 もし愛さないなら、わたしたちは墓の中にとどまり続けることになります。愛を忘れるとき、わたしたちの心は闇に閉ざされ、汚れたものに満ちた、冷たい墓に変わってしまうのです。愛を忘れるとき、わたしたちの行動の基準は自分だけになります。自分のことしか考えなくなるとき、わたしたちの心は、自分の思った通りにならない相手への怒りや憎しみ、将来への恐れや不安、他人を犠牲にしても欲しいものを手に入れたいと願う、乱れた執着など、汚れた思いで満たされていくのです。愛を忘れ、自分の思ったままに行動しているうちに、気がつけば、わたしたちの心は荒み切った冷たい墓のようになっている。そういうことなのです。

 墓から抜け出し、キリストと共に永遠の命を生きるために、わたしたちはいつも、愛を選び続ける必要があります。たとえば、もし人から悪口を言われたとき、「なんだあいつ、頭にくる。あんなやついなくなればいい」と思うなら、わたしたちは墓の中に逆戻りしてしまうでしょう。「あてにならない人間の言葉におびえ、人からの評判を気にしながら生きていた古い自分は死んだ。別に気にする必要はない」と思い、かえって人の悪口を言っている人の荒んだ心を心配する。あるいはたとえば、誰かが人から褒められているのを見たとき、「あいつばかり褒められやがって」と腹を立てるのではなく、「いま、あの人を通して神の栄光がこの地上に現れた。本当にすばらしいことだ」と思ってその人と一緒に喜ぶ。そのようになったとき、わたしたちは復活の命を生きる者となり、神の栄光をこの地上に輝かす者となるのです。

 キリストと共に死んだと言いながら、墓の闇の中にとどまり続けていたのでは意味がありません。キリストと共に死に、愛を生きるときにのみ、わたしたちは光り輝く神の栄光、永遠の命を生きる者となるのです。墓から出て、喜びに満ちた光の中を共に歩んでいくことができるよう、心を合わせてお祈りましょう。

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