バイブル・エッセイ(1022)生きるために

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生きるために

 週の初めの日の明け方早く、(婦人たちは、)準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。(ルカによる福音書24:1-12)

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」、墓の中にイエスの遺体が見当たらず、途方に暮れている婦人たちに、天使はそう語りかけました。死の世界である墓の中にイエスはいない。イエスはいつも、光にあふれた命の世界に生きているということでしょう。復活とは、闇に覆われた死の世界を出て、光に満たされた命の世界に生きるということなのです。

 人間は誰しも、生きたいと願っています。しかし、生きたいと願うあまりに道を誤り、死の世界に引き込まれてゆくことも多いのです。世界各地で起こっている戦争は、そのような誤りの中で一番大きなものでしょう。ほとんどの戦争は、「防衛のため」という理由で始められます。自分の国を守るため、自分たちが生きていくために、やむをえず相手の国を攻撃しているというのです。

 しかし、戦争はわたしたちを死の世界へと導きます。自分たちが生きるために敵の民間人を殺害する、小さな子どもや高齢者、無抵抗な人々の上に次々と爆弾を落とす。そのようなこと互いに繰り返しているうちに、わたしたちの心は怒りや憎しみによって焼き尽くされてゆきます。生きるために始めた戦争によって、わたしたちの街は焼け野原となり、わたしたちの心も荒涼とした不毛の大地になってしまうのです。戦いに勝って生き残ったとしても、心は死んでしまう。生きたいと願った結果、自分自身を殺してしまう。それが戦争なのだと思います。

 なぜ、そんなことになるのでしょう。それは、「生きる」ということがどういうことなのか、わかっていないからだと思います。「生きる」とは、敵を滅ぼして自分だけが生き残るということではなく、すべての人と共に生きていくということ。すべての命が大切にされる、命の世界を作るということなのです。「敵を滅ぼす」という発想には、いくつもの間違いがあります。まず、自分にとって敵であったとしても、その人も大切な命だということです。その人は敵ではなく、同じ地球の上で共に生きていく命なのです。敵を殺すということは命を破壊するということであり、命を破壊すれば、自分自身の命も必ず傷つきます。敵を滅ぼすことで、自分の命を守ることなどできないのです。

 戦争が作りだすのは、死の世界だけです。それはわたしたちの身近な「戦争」、家や、教室、職場での喧嘩についても言えることです。自分を守るために、自分が気に入らないだれかの悪口を言う、相手をしつこく攻撃する。そのようなことをすれば、わたしたちは死の世界に引き込まれ、自分で自分の息の根を止めることになります。自分を守ろうとして始めた戦争によって、自分自身が滅びてしまうのです。

 では、どうしたら闇に覆われた死の世界、冷たく暗い墓穴から抜け出すことができるのでしょう。どうしたら、イエスがおられる命の世界、喜びと希望に満たされた光の世界に行けるのでしょう。そのための唯一の道は、イエスが教えてくださった通り、「互いに愛し合う」ことだと思います。それだけが、わたしたちが本当の意味で生きていくための道なのです。生きるためには、愛しあう以外にない。そのことを深く心に刻んで、光に包まれた命の道、復活の道を歩いてゆきましょう。

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バイブル・エッセイ(1021)身代わりの愛

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身代わりの愛

 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、言われた。「渇く」こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、言われた。「成し遂げられた。」(ヨハネ19:25-30)

 イエスは十字架上で、最後に「成し遂げられた」という言葉を残して息を引き取ったとヨハネ福音書は伝えています。イエスが「成し遂げたこと」、それはいったい何だったのでしょう。イエスが十字架上で死んだことによって、いったい何が変わったのでしょうか。

 「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった」というイザヤ書の言葉の中に、十字架の意味を考えるための大きな手掛かりがあると思います。この言葉のもとにあるのは、わたしたちはみな、罪深い存在だということです。神の子として共に生きていくべき兄弟姉妹であるはずなのに、互いに争い、人を裏切ったり傷つけたりして生きているわたしたち。そのようなわたしたちは、本来、重い罰を受けても仕方がない存在だ。しかし、イエスは、そんなわたしたちを深く憐れみ、わたしたちが受けるべき罰を、わたしたちに代わって受けてくださった。それが、十字架の意味だということです。

 それは、イエスの愛の究極の表現だと言ってよいでしょう。人間同士のあいだでも、たとえば自分の子どもが重病にかかり、苦しんでいる。医師も手の施しようがないというとき、親は「この子の代わりに、わたしの命をとってください」と祈ることがあります。この子のためなら、この子を苦しみから解き放ち、再び立ち上がらせるためなら、自分の命さえ差し出してもかまわない。そのような親の思いは、「この子の代わりに」という身代わりの愛となって現れるのです。

 そのように祈っても、実際に親が子どもの身代わりになることはできないでしょう。しかし、イエスの場合には、それが実現しました。欲望に引きずられ、感情に押し流されて罪を犯してしまう人間の弱さをよく知っているイエスは、そんな人間たちの弱さを深く理解し、それでもそんな人間たちを救いたい。人間たちが味わうはずの苦しみを、自分が代わりに背負いたいと願って、神から聞き入れられたのです。イエスが十字架上で味わっている苦しみは、本来は、わたしたちが味わうはずだった苦しみなのです。

 イエスは、自分の愚かさのゆえに苦しむ人間たちを憐れみ、その苦しみをわたしたちの代わりに背負ってくださいました。苦しむわたしたちの代わりに、自分の命を差し出してくださったのです。それこそ、イエスが十字架上で「成し遂げた」ことでした。ここに、イエスの愛があります。この愛に触れるとき、わたしたちの心には、イエスへの感謝と同時に、「これほどまでにわたしたちのことを愛してくださるイエスを、これ以上苦しませてはならない。イエスの愛にふさわしい人間になろう」という思いが湧き上がるに違いありません。イエスの十字架を記念するこの日に、改めて十字架の愛に触れ、その決意を新たにしましょう。

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バイブル・エッセイ(1020)この上ない愛

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この上ない愛

 過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(ヨハネ13:1-15)

 受難のときを前に、イエスは「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」とヨハネ福音書は記しています。これは、ヨハネが後から振り返って、「いまから思えば、わたしたちの足を洗ってくれたあの夜の出来事、あれこそがイエスの愛の極みだったのだ」と気づいたということでしょう。ヨハネの心にそれほどまでの印象を残した、弟子たちの足を洗うという出来事。それは、いったいどんな出来事だったのでしょう。

 簡単に言えば、弟子たちの足を洗うということは、あるがままの弟子たちを受け入れ、その弟子たちを愛するということだと思います。しかし、それは口で言うほど簡単なことではなかったはずです。なぜなら、イエスはこのとき、数年間に渡る弟子たちとの関わりの中で、弟子たちの心の中に何があるかよく知っていたからです。イエスが足を洗った弟子たちの中には、ユダもいました。これから自分を裏切り、敵の手に渡そうとしている相手を、果してあるがままに受け入れることができるでしょうか。そんな相手に、喜んで奉仕することができるでしょうか。他の弟子たちについても、ほとんど同じことが言えます。自分を見捨てて逃げ出し、命惜しさに「あんな人は知らない」とさえ口走るような相手を、果してあるがままに受け入れることができるでしょうか。それは、ほとんど不可能と思えるくらい難しいと思います。

 しかし、イエスはそれをしました。やがて自分を見捨てて逃げ去る弟子たちの足を一人ひとり丁寧に洗い、自分を裏切るユダの足さえ丁寧に洗ったのです。ここに、ヨハネが「弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」というイエスの愛があります。イエスは弟子たちのことを隅々まで知り、その弱さや醜さも含めてあるがままに受け入れたのです。そんな弟子たちのために、最後に何かしてあげずにはいられない。そう思って弟子たちの足を洗ったのです。小さな子どもへの愛情を、「目に入れても痛くない」ほどの愛と表現することがありますが、このときのイエスの弟子たちへの愛は、そのようなものだったかもしれません。相手にどんな弱さや醜さがあったとしても、そんな弟子たちだからこそ愛さずにいられない。この弟子たちのために、自分の命を差し出しても構わない。弟子たちの足を洗うという行動の中には、イエスのそれほどの愛が込められていたのです。すべてが終わり、イエスが十字架につけられた後、弟子たちはその愛に気づきました。イエスが、こんな自分たちを「この上なく愛し抜いて」くださったことに気づいたのです。

 弟子たちの足を洗い終わった後、イエスは、「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と言いました。その言葉の本当の意味も、弟子たちは後から知ることになります。互いの足を洗うとは、単に互いに奉仕するということではなく、相手の弱さを知り抜いた上で、それでも相手を受け入れるということであり、そんな相手のために自分を喜んで差し出すということなのです。イエスの模範にならい、わたしたちもそのような愛で互いに愛し合うことができるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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こころの道しるべ(112)持ってゆけるもの

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持ってゆけるもの

どんなにたくさんの物を手に入れても、
入院するとき病院に持ってゆけるのは、
せいぜいキャリーバッグ
一つ分の荷物だけ。
天国には、それさえ
持ってゆくことができません。
天国に持ってゆくことができるのは、
心を満たした愛だけです。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(1019)十字架につける

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十字架につける

 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。百人隊長はこの出来事を見て、神を賛美して言った。「本当に、この人は正しい人だった」、見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。(ルカ23:44-49)

「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」、それが十字架上でのイエスの最後の言葉だったとルカ福音書は伝えています。一日一日を神の手に委ね、一年一年を神の手に委ねて生きてきた人生の最後に、イエスは自分の生涯そのものを神の手に委ねたのです。この徹底した委ねのゆえに、「神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになった」とパウロは言います。神の愛を信じてすべてを委ねきったとき、イエスは神の愛と完全に結ばれ、永遠の命を生きる者となったのです。
 自分のすべてを神の手に委ねるということを、イエスにならって「自分を十字架につける」と表現することがあります。具体的にはどういうことでしょう。何を、どうやって十字架につければよいのでしょう。
 十字架につけるべきものの一つは、自分の思惑でしょう。「ここに行きたい」「あれをしたい」といった自分の思いを棚上げし、「神さま、わたしはこのようなことを願っていますが、それはしょせんわたしの愚かな考えに過ぎません。どうかあなたの願いが行われますように。あなたの願いを、わたしが見つけ出すことができますように」と祈る。それが、自分を十字架につけるということなのです。
 実際、わたしたちが願うことは、たとえ実現しても幸せになれない、見当外れなものであることが多いようです。高望みして、自分の力で担いきれない役職や地位を願ったり、自分には合わない相手と結ばれることを望んだりして、あとから、「あんなこと願うのではなかった」と後悔することも多いのです。そんな自分の限界をわきまえ、謙虚な心で神のみ旨を探し求める。それが、自分を十字架につけることだと言ってよいでしょう。
 将来への不安や恐れを十字架につけるということもあります。「ああなったらどうしよう」「こうなったら困る」といった思いを手放し、「神さま、たとえわたしの思った通りにならなくても、あなたがなさることなら、それがわたしにとって一番よいことです。わたしの将来を、すべてあなたの手に委ねます」と祈る。考えてもどうしようもないことはすべて神の手に委ね、自分がいますべきことに集中する。それが、自分を十字架につけるということなのです。
 怒りや憎しみも十字架につけるべきでしょう。「あんな奴、絶対にゆるせない」「必ず復讐してやる」といった思いを手放し、「わたしは相手のことがよくわかっていないし、そもそもなぜ自分がこんなに腹を立てているのかもよくわかりません。きっと相手も、自分が何をしているかわかっていないのでしょう。どうか、あなたの裁きが行われ、共に生きていく道が示されますように」と祈る。それが、自分を十字架につけるということなのです。実際、イエス自身も十字架上で、自分を殺そうとする人たちのために、「この人たちは自分が何をしているのか知らないのです」と祈っています。
 自分を十字架につけるとき、わたしたちの心は喜びと安らぎで満たされます。わたしたちの救いは、この十字架にこそあるのです。自分に死ぬことによってのみ、わたしたちは永遠の命に至ることができる。イエスが生涯をもって示してくださったこの真理をあらためて心に刻み、生きていくことができるよう祈りましょう。

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こころの道しるべ(111)自立する

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自立する

一人で生きられる人はいません。
「自立する」とは、
誰かのお世話にならなければ
生きられないことに気づき、
感謝できるようになること。
誰かに支えられながら、
他の誰かを
支えられるようになることです。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(1018)愛の大河

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愛の大河

 そのとき、イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(ヨハネ8:1-11)

 姦通の罪を犯した女性に、イエスは「わたしもあなたを罪に定めない」と言いました。「罪を犯したことがない者が石を投げなさい」ということであれば、集まっている人の中でイエスだけには石を投げる資格があったはずです。しかし、そのイエスも女性に石を投げませんでした。この女性は、確かにゆるされたのです。

 イザヤ書は「昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う」という神の言葉を伝えています。神から大きな恵みが与えられ、すべてが新しくなる。だから、これまでのことは気にする必要がないというのです。新しいこととは、「荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせる」ということです。神が注いでくださる水は神の愛であり、流れさせる大河とは、愛の大河だと考えたらよいでしょう。愛の大河が心を流れるとき、その人の心は豊かにうるおされ、よいものをたわわに実らせる肥沃な大地に変わるのです。

 これがまさに、姦通の罪を犯した女性に起こったことだと思います。イエスと出会い、ゆるされるはずのない罪をゆるされたとき、女性の心に、神の愛が豊かに注がれました。その愛は大河となって彼女の心をうるおし、これからの彼女の人生を、これまでとはまったく違ったものにするに違いありません。

 刑務所で教誨師をしていると、同じような出来事をよく目にします。罪を犯して刑務所に入って来た人たちが、刑務所の職員たちの親身な世話を受けて新しい人間に生まれ変わっていくということです。

 わたしが知っている限り、受刑者の中には、それまでの人生であまり人から大切にされたり、愛されたりした経験がない人が多いようです。親から虐待されたり、恋人から暴力を振るわれたりして、心が荒み、「自分なんかどうなってもいい」と思い込んでしまっている人もいます。熱血漢が多い刑務官たちは、そんな人たちを何とか更生させたい、これまで気の毒な人生を送って来た彼らを、何とか幸せにしてあげたいという一心で彼らに関わります。出所してから役立つような資格を取らせてあげたり、カウンセリングをしたり、それこそできる限りのことをして支援するのです。受刑者の中には、「これまで、わたしのことを邪魔者扱いする人ばかりだった。誰かから親身にかかわってもらったのは、生まれて初めてだ」という人さえいます。このような出会いを通して、荒れ果てた彼ら、彼女たちの心の中に、愛の川が流れ始めるのです。そのとき、受刑者たちは変わり始めます。愛でうるおされた彼らの心で、これまで眠っていたよいものの種が芽を出し始めるのです。

 関わる相手は、刑務官だけでなく、改めて向かい合った家族や教誨師の場合もあります。いずれにしても、愛が注がれることによって、彼らの心に大きな変化が生まれるのです。荒み切った人間の心を変えることができるのは、人々を通して注がれる愛の大河だけなのです。

 まず何より大切なのは、わたしたちの心に愛の川が流れていることでしょう。もし豊かな愛の大河が流れているなら、その流れの水を、人に分け与えることさえできるはずだからです。すべてを新しくしてくださる神の愛に信頼し、神の愛に潤された豊かな心を持つことができるよう祈りましょう。

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