バイブル・エッセイ(1143)愛の中にとどまる

愛の中にとどまる

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハネ15:9-17)

「わたしの愛にとどまりなさい。…わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」とイエスが弟子たちに教える場面が読まれました。イエスの掟は「互いに愛し合いなさい」ということですから、イエスは、「互いに愛し合うことによってわたしの愛にとどまりなさい」といっていると考えてよいでしょう。互いに愛しあうとき、わたしたちはイエスの愛の中にいるのです。

 幼稚園でときどき、子どもたちから「神さまは目に見えないけど、どこにいるの」と聞かれることがあります。そんなときわたしは、「目には見えないけれど、みんなの中にやさしい心があるよね。そのやさしい心の中に、神さまがいるんだよ」と答えることにしています。「神は愛」だとすれば、そのやさしい心そのものが神さまだといってもいいかもしれません。そしてこう続けます。「みんなが誰かにやさしくしてあげるとき、その子とみんなのあいだにも神さまがいるんだよ。目にはみえないけれど、みんなが誰かにやさしくしてあげるとき、神さはま、にっこりほほ笑みながらみんなを見ているんだ」。そんな風に説明すると、子どもたちは「ふーん」といって、ちょっと納得したような顔をしてくれます。大人向けにいうなら、神さまはわたしたち一人ひとりの心の中にいる。互いに愛し合うとき、わたしたちは神さまの愛の中にいるといっていいでしょう。

 では、どうしたらいつもイエスの愛にとどまることができるのでしょう。互いに愛し合うことができるのでしょう。イエスは、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」といっていますが、この言葉の中にヒントがあるような気がします。イエスは十字架上で人々のために自分の命を差し出しましたから、文字通りこの言葉を実践したのですが、わたしたちとしては、日々の生活の中で相手のために自分を捨てることから愛が生まれると理解したらいいでしょう。「こうなって欲しい」という思いや、「なんでわたしの思った通りにならないんだ」という怒りを捨て、相手のために自分を差し出す。無理に自分の思いを通すよりも、相手の幸せのために自分を捨てることを選ぶ。それが、相手を愛するということであり、日々の生活の中で愛を生きるということなのです。

 幼稚園の子どもたちは、これがとても上手です。お友だちと喧嘩をしても、すぐにけろっとした顔でお互いにゆるしあい、仲よくなってしまうのです。喧嘩を続けるより、仲よくした方がずっと楽しいと、本能的に知っているからでしょう。いつまでも根に持って、「あいつだけはゆるさない」というようなことが起こりがちな大人は、子どもたちから学ぶべきかもしれません。自分の思いよりも、愛を優先することができるよう、相手のために自分を捨て、いつもイエスの愛の中にとどまることができるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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