バイブル・エッセイ(1030)聖霊の働き

聖霊の働き

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ14:15-16、23b-26)

 聖霊が降ったとき、「激しい風」が吹き、「炎のような舌」が現れたと使徒言行録は記しています。聖霊は、弟子たちの心の中にある不安を吹き飛ばし、弟子たちの心に命の息を吹き込む風であり、弟子たちの心の中にある恐れを焼き尽くし、弟子たちの心を神への愛に燃え上がらせる炎でもある。弟子たちは、きっとそのように感じたのでしょう。聖霊が降るとき、不安や恐れは消え去り、わたしたちは新しい命と愛で満たされるのです。

 そのとき、わたしたちにいったい何が起こるのでしょうか。聖霊がやって来るとは、いったいどういうことなのでしょう。イエスの教えを守るなら、「父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」というイエスの言葉の中にヒントがあると思います。聖霊がやって来るとは、イエスがいなくなるということではなく、聖霊と共にイエスが、そして父なる神がやって来るということでもあるのです。聖霊が降るとき、わたしたちはイエスの存在を、これまで以上に身近に感じられるようになる。イエスの教えの意味を、これまで以上に理解できるようになる。そのように考えたらよいでしょう。

 イエスの存在を感じ、父なる神の愛で満たされるとき、わたしたちの心からは不安や恐れが消え去ります。「何があっても、イエスが一緒にいてくださる。何も心配する必要はない」と、心の底から思えるようになるのです。それだけではありません。イエスのそばにいるとき、わたしたちの心は新しい命と力、愛で満たされていきます。イエスと共に神を愛し、人々を愛そう。何も恐れず、ただイエスの後について行こうという思いが、わたしたちの心の中に燃え上がり始めるのです。聖霊が降るとき、不安や恐れは消え去り、わたしたちは新しい命と愛で満たされる、と言ってよいでしょう。

 わたしたちの人生は、いつも不安や恐れと隣り合わせです。それも一つや二つではありません。仕事のこと、家族のこと、病気のこと、自分の将来のことなど、心配し始めたらきりがないくらいたくさんの不安や恐れと隣り合わせで生きていく。それが、わたしたちの人生なのだと思います。ですが、心配する必要はありません。わたしたちには、聖霊が与えられているからです。不安や恐れにとりつかれそうになったときには、心を静かにして、「聖霊、来てください」と祈りましょう。聖霊は、わたしたちの心の目を開き、イエスが、そして父なる神が、いつもわたしたちと一緒に住んでおられることを思い出させてくださるでしょう。

 イエスと父なる神が一緒にいてくださるなら、一体、何を心配する必要があるでしょうか。ただ、イエスと共に愛の掟を実践し、互いに助け合って生きていけばよいのです。不安や恐れにとりつかれて道を踏み外すことなく、いつもイエスと共に愛の掟を実践していくことができるよう、互いに愛し合い、この地上に「神の国」を実現していくことができるよう、共に聖霊の助けを願って祈りましょう。

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こころの道しるべ(118)怒りの原因

怒りの原因

疲れているときに、
相手の何気ない
一言に怒りを感じたなら、
その怒りは、
相手ではなく体の疲れが生んだもの。
その怒りは、
相手にぶつけるべき怒りではなく、
疲れが取れるまで
じっとこらえるべき怒りです。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(1029)天からの祝福

天からの祝福

 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「聖書には次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。(ルカ24:46-53)

 イエスは弟子たちを「手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」とルカ福音書は記しています。イエスは、スーパーマンのように天を見上げて飛び上がったわけではなく、弟子たちの方をじっと見て、手を弟子たちの方にかざし、弟子たちの幸せを祈りながらゆっくり天に上げられていったのです。イエスの顔には、静かなほほ笑みさえ浮かんでいたかもしれません。その姿は、自分たちが見たイエスの最後の姿として、弟子たちの心に深く刻まれたことでしょう。

 天に上げられたイエスが、いつも自分たちのために祈ってくれている。弟子たちは、イエスの最後の姿を思い出すたびに、そのことを思い出し、力づけられたに違いありません。イエスが生きていたあいだ、弟子たちは必ずしも理想的な弟子ではありませんでした。むしろ、イエスの言うことをなかなか理解できず、イエスをがっかりさせることも多い不肖の弟子だったのです。それにもかかわらず、イエスは自分たちをゆるし、ありのままに受け入れてくれた。失敗を繰り返しながらも、その都度、自分の弱さに気づいて反省し、神に立ち返ろうとしてもがく自分たちを、イエスはいつもあたたかく見守っていてくれた。そんな自分たちのために、イエスはいまも、天国から祈っていてくれる。そのことを思い出すたびに、弟子たちはイエスの愛に心を満たされ、前に進んでいくための力を与えられたことでしょう。そのような体験が、聖霊降臨の体験にもつながったのかもしれません。

 この世を去った人が、自分のために祈ってくれているということは、わたしたちの人生を支える大きな力になると思います。わたし自身は、亡くなった祖母のことをよく思い出します。わたしは子どもの頃、いつも祖母にまとわりついている典型的な「おばあちゃん子」でした。祖母がこの世を去ったとき、わたしはイエズス会の修練中で、死に目には会えませんでしたが、亡くなる直前までわたしの名前を呼んでいたと家族から聞かされました。きっといまも、天国からわたしのために祈ってくれていることでしょう。そのことを思うと、どんなに苦しいときでも、「よし、がんばろう」と思える力が湧き上がってきます。誰かのために祈りながらこの世を去るということには、残される人たちに生きる力を残すという意味があるのです。

 みなさんの中にも、同じような体験をしている方がきっといるでしょう。もし、自分のために天国から祈っている人の顔が思い浮かばなかったとしても、イエスは必ず、わたしたちのために祈ってくれています。弱くて不完全なわたしたちをゆるし、わたしたちの成長をあたたかく見守りながら、わたしたちのために祈り続けていてくださるのです。そのことをいつでも思い出せるように、今日、この聖書の箇所を通して、わたしたちを祝福しながら天に上げられたイエスの姿を心にしっかりと刻みましょう。

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こころの道しるべ(117)まずは自分から

まずは自分から

「誰もわたしを大切にしてくれない」
と嘆く前に、
「わたしは周りの人を
大切にしているだろうか」
と自分に問いかけましょう。
「誰もわたしの話を聞いてくれない」
と嘆く前に、
「わたしは人の話を
よく聞いているだろうか」
と自分に問いかけましょう。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(1028)心を騒がせるな

心を騒がせるな

「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。」(ヨハネ14:23-29)

 イエスの受難の時が迫り、将来に不安や恐れを感じ始めている弟子たちに、「心を騒がせるな。おびえるな」とイエスは言いました。「たとえわたしが取り去られても、聖霊があなたたちと共にいる。何も心配する必要はない」ということでしょう。聖霊がわたしたちの心を満たすとき、わたしたちはどんなときでもイエスの存在を感じ、イエスの愛に導かれて生きられるようになります。聖霊が共にいてくださる限り、わたしたちはいつも、イエスの愛に包まれて穏やかに生きることができるのです。

 将来に不安や恐れを感じるとき、わたしたちの心から平和が失われます。たとえば病気になったとき、わたしたちはつい自分の将来についてあれこれ心配し、不安でたまらなくなって心の平和を失ってしまいがちです。「検査の結果が悪かったらどうしよう。これが死につながる病気だったらどうしよう」などと、つい考えてしまうのです。そんなとき、イエスはわたしたちに、「心を騒がせるな。おびえるな」とおっしゃいます。「たとえどんなことになっても、わたしがあなたと一緒にいる。何も心配する必要はない」ということです。そのことに気づくとき、わたしたちの心は平和で満たされます。「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちはいつもイエスさまと一緒。何も心配する必要はない」と思えるようになるのです。このときわたしたちの心に訪れる平和こそが「キリストの平和」であり、この平和をもたらしてくださる方こそが聖霊だと言ってよいでしょう。

 自分の将来についての不安や恐れにとりつかれ、心から平和を失うとき、わたしたちは自分を守ることしか考えられなくなってしまいがちです。それぞれが自分を守ることしか考えられなくなり、相手をいたわる気持ちを忘れるなら、そのとき、わたしたちのあいだには争いが起こるでしょう。「なぜ、あなたは自分のことしか考えられないんだ。わたしはこんなに大変な状況に置かれているのに」と互いに言い合って、いがみあうことになるのです。心から平和が失われるとき、世界からも平和が失われると言ってよいでしょう。

 使徒言行録に記された、割礼をめぐる弟子たちの論争もその一つの例だと言えます。ある弟子たちは、割礼のことでユダヤ教徒たちから迫害を受けることを恐れ、自分たちが迫害されないために、異邦人にまで割礼を受けることを求めたのです。聖霊は、弟子たちの心からこの恐れを取り去りました。そのとき、聖霊と使徒、長老たちの名によって、キリスト教徒のあいだに平和をもたらす決断、異邦人に割礼を求める必要はないという決断がなされたのです。

 日々の生活の中でわたしたちが将来に不安を感じるとき、イエスはわたしたちに、「心を騒がせるな。おびえるな」とおっしゃいます。イエスがいつも一緒にいてくださる以上、何が起こっても心配する必要などありません。そのことをいつも覚えていられるよう、不安が心を訪れるたび、イエスの言葉に耳を傾けて勇気を取り戻すことができるよう、聖霊の助けを願って祈りましょう。

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こころの道しるべ(116)「好き」と「愛する」

「好き」と「愛する」

「好き」というのは、
相手が自分にとって好ましい限り、
その人と一緒にいるということ。
「愛する」というのは、
相手が好ましさをすべて失ったとしても、
その人がその人である限り
寄り添い続けるということです。

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バイブル・エッセイ(1027)ゆるしの頂点

ゆるしの頂点

 さて、ユダが晩餐の広間から出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:31-33a、34-35)

 最後の晩餐の席からユダが出て行ったとき、イエスは「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」と言いました。なぜこのタイミングなのでしょう。まだ十字架にもつけられず、復活もしていないこのときに、なぜ「人の子は栄光を受けた」とイエスは言ったのでしょうか。

 一つの可能性は、イエスがここで、自分を裏切ろうとしているユダをゆるしたということです。イエスはユダに向かって、「しようとしていることを、今すぐしなさい」と言いましたが、それはつまり、「わたしは、あなたがサタンにそそのかされてこれからしようとすることを知っている。しかし、それでもわたしはあなたをゆるす。しようとしていることをしなさい」という意味だったとも考えられます。そうだとすれば、イエスがユダを行かせたことは、イエスの愛の一つの頂点だったと言ってよいでしょう。自分を裏切り、死地に追いやろうとする相手さえあるがままに受け入れ、ゆるそうとするイエスの愛。そんな人間でも愛し続け、救いたいと願うイエスの愛。その愛の中には、確かに神の栄光が輝いています。だからこそイエスは、このとき「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」と言ったのです。

 どんなに愛しても、自分の愛を受け入れてくれない相手をゆるす。自分を裏切り、傷つけようとする相手さえゆるす。イエスはわたしたちを、そのように愛しました。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」とイエスが言うとき、その愛の中には、自分を裏切ろうとしている相手さえゆるすということまで含まれているのです。よく「相手をあるがままに受け入れる」と言いますが、その「あるがまま」の中には、わたしたちの愛を受け入れようとしない相手を、あるがままに受け入れるということまで含まれているのです。

 いったい、どうしたらそんな愛を実践できるのでしょうか。そのために何より必要なのは、その相手もかけがえのない神の子だということを思い出し、相手を信じることだと思います。イエスはユダを行かせましたが、それは、ユダが必ず自分の間違いに気づいて回心するときが来ると確信していたからでしょう。結果として、ユダは自殺してしまいましたが、その前に自分の間違いに気づき、悔い改めたことは間違いありません。そんなユダを、イエスはゆるさずにいられなかったのです。

 わたしたちにも、そのような愛を実践することが求められています。いまは届かなかったとしても、必ずこの愛が届く日が来る。そう信じて愛し続ける。いまは分かってくれなくても、必ず分かってくれる日が来る。そう信じて愛し続けることが求められているのです。その信頼が裏切られることは決してありません。なぜなら、その人も、神に愛されて生まれてきた神の子だからです。相手をどこまでも信じ、ゆるす愛を実践することで、わたしたちがイエスの弟子であることを証しできるように、そうすることでこの地上に神の栄光を輝かせることができるように、心を合わせてお祈りしましょう。

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