バイブル・エッセイ(1028)心を騒がせるな

心を騒がせるな

「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。」(ヨハネ14:23-29)

 イエスの受難の時が迫り、将来に不安や恐れを感じ始めている弟子たちに、「心を騒がせるな。おびえるな」とイエスは言いました。「たとえわたしが取り去られても、聖霊があなたたちと共にいる。何も心配する必要はない」ということでしょう。聖霊がわたしたちの心を満たすとき、わたしたちはどんなときでもイエスの存在を感じ、イエスの愛に導かれて生きられるようになります。聖霊が共にいてくださる限り、わたしたちはいつも、イエスの愛に包まれて穏やかに生きることができるのです。

 将来に不安や恐れを感じるとき、わたしたちの心から平和が失われます。たとえば病気になったとき、わたしたちはつい自分の将来についてあれこれ心配し、不安でたまらなくなって心の平和を失ってしまいがちです。「検査の結果が悪かったらどうしよう。これが死につながる病気だったらどうしよう」などと、つい考えてしまうのです。そんなとき、イエスはわたしたちに、「心を騒がせるな。おびえるな」とおっしゃいます。「たとえどんなことになっても、わたしがあなたと一緒にいる。何も心配する必要はない」ということです。そのことに気づくとき、わたしたちの心は平和で満たされます。「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちはいつもイエスさまと一緒。何も心配する必要はない」と思えるようになるのです。このときわたしたちの心に訪れる平和こそが「キリストの平和」であり、この平和をもたらしてくださる方こそが聖霊だと言ってよいでしょう。

 自分の将来についての不安や恐れにとりつかれ、心から平和を失うとき、わたしたちは自分を守ることしか考えられなくなってしまいがちです。それぞれが自分を守ることしか考えられなくなり、相手をいたわる気持ちを忘れるなら、そのとき、わたしたちのあいだには争いが起こるでしょう。「なぜ、あなたは自分のことしか考えられないんだ。わたしはこんなに大変な状況に置かれているのに」と互いに言い合って、いがみあうことになるのです。心から平和が失われるとき、世界からも平和が失われると言ってよいでしょう。

 使徒言行録に記された、割礼をめぐる弟子たちの論争もその一つの例だと言えます。ある弟子たちは、割礼のことでユダヤ教徒たちから迫害を受けることを恐れ、自分たちが迫害されないために、異邦人にまで割礼を受けることを求めたのです。聖霊は、弟子たちの心からこの恐れを取り去りました。そのとき、聖霊と使徒、長老たちの名によって、キリスト教徒のあいだに平和をもたらす決断、異邦人に割礼を求める必要はないという決断がなされたのです。

 日々の生活の中でわたしたちが将来に不安を感じるとき、イエスはわたしたちに、「心を騒がせるな。おびえるな」とおっしゃいます。イエスがいつも一緒にいてくださる以上、何が起こっても心配する必要などありません。そのことをいつも覚えていられるよう、不安が心を訪れるたび、イエスの言葉に耳を傾けて勇気を取り戻すことができるよう、聖霊の助けを願って祈りましょう。

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