バイブル・エッセイ(1029)天からの祝福

天からの祝福

 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「聖書には次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。(ルカ24:46-53)

 イエスは弟子たちを「手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」とルカ福音書は記しています。イエスは、スーパーマンのように天を見上げて飛び上がったわけではなく、弟子たちの方をじっと見て、手を弟子たちの方にかざし、弟子たちの幸せを祈りながらゆっくり天に上げられていったのです。イエスの顔には、静かなほほ笑みさえ浮かんでいたかもしれません。その姿は、自分たちが見たイエスの最後の姿として、弟子たちの心に深く刻まれたことでしょう。

 天に上げられたイエスが、いつも自分たちのために祈ってくれている。弟子たちは、イエスの最後の姿を思い出すたびに、そのことを思い出し、力づけられたに違いありません。イエスが生きていたあいだ、弟子たちは必ずしも理想的な弟子ではありませんでした。むしろ、イエスの言うことをなかなか理解できず、イエスをがっかりさせることも多い不肖の弟子だったのです。それにもかかわらず、イエスは自分たちをゆるし、ありのままに受け入れてくれた。失敗を繰り返しながらも、その都度、自分の弱さに気づいて反省し、神に立ち返ろうとしてもがく自分たちを、イエスはいつもあたたかく見守っていてくれた。そんな自分たちのために、イエスはいまも、天国から祈っていてくれる。そのことを思い出すたびに、弟子たちはイエスの愛に心を満たされ、前に進んでいくための力を与えられたことでしょう。そのような体験が、聖霊降臨の体験にもつながったのかもしれません。

 この世を去った人が、自分のために祈ってくれているということは、わたしたちの人生を支える大きな力になると思います。わたし自身は、亡くなった祖母のことをよく思い出します。わたしは子どもの頃、いつも祖母にまとわりついている典型的な「おばあちゃん子」でした。祖母がこの世を去ったとき、わたしはイエズス会の修練中で、死に目には会えませんでしたが、亡くなる直前までわたしの名前を呼んでいたと家族から聞かされました。きっといまも、天国からわたしのために祈ってくれていることでしょう。そのことを思うと、どんなに苦しいときでも、「よし、がんばろう」と思える力が湧き上がってきます。誰かのために祈りながらこの世を去るということには、残される人たちに生きる力を残すという意味があるのです。

 みなさんの中にも、同じような体験をしている方がきっといるでしょう。もし、自分のために天国から祈っている人の顔が思い浮かばなかったとしても、イエスは必ず、わたしたちのために祈ってくれています。弱くて不完全なわたしたちをゆるし、わたしたちの成長をあたたかく見守りながら、わたしたちのために祈り続けていてくださるのです。そのことをいつでも思い出せるように、今日、この聖書の箇所を通して、わたしたちを祝福しながら天に上げられたイエスの姿を心にしっかりと刻みましょう。

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