こころの道しるべ(144)二つの言葉

二つの言葉

最も簡単な祈り、それは
神さまに「ありがとう」と
「ごめんなさい」を言うこと。
いただいた恵みに「ありがとう」、
誰かを苦しめたことに「ごめんなさい」
と言いましょう。
それだけで十分です。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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『日々を生きる力』刊行記念講演会in東京

『日々を生きる力』刊行記念講演会in東京
12月13日(火)18:30-20:00、水道橋の貸し会議室・内海にて『日々を生きる力~あなたを励ます聖書の言葉366』(教文館)の刊行記念講演会を開催します。コロナ禍で会場探しが難航しましたが、なんとかよい場所を見つけていただきました。参加費1000円。サイン会もあります。どうぞ皆様ご参加ください(^O^)

『日々を生きる力』刊行記念講演会in宇部

『日々を生きる力』刊行記念講演会in宇部

聖書から引用された1年分、366箇所の短い言葉に、わかりやすい解説をつけた片柳弘史神父の新刊『日々を生きる力~あなたを励ます聖書の言葉366』(教文館)の刊行を記念して、カトリック宇部教会で講演会を行います。参加無料。どなたでも、お気軽にご参加ください。

日時/ 2022年12月17日(土)10:00-11:30
場所/ カトリック宇部教会(県総合庁舎隣)
講師/ 片柳弘史(カトリック宇部教会主任司祭)

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バイブル・エッセイ(1056)しもべとして生きる

しもべとして生きる

「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」マタイ24:37-44

 イエスが弟子たちに、「目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである」という場面が読まれました。「目を覚ましている」というのは、この場合、自分がしもべであることを忘れず、主人から与えられた使命を忠実に果たすことだといってよいでしょう。そのような姿を主人に見られるなら、そのしもべは幸いだということです。

 主人であるイエスからわたしたちに与えられた使命、それは、互いに愛しあうことに他なりません。その使命を果たしている限り、わたしたちはいつも、満たされた心で平和に生きられるのです。しかし、わたしたちは、ついこの使命を忘れてしまいがちです。心の中から、すべてを自分の思った通りに動かしたい、自分の思った通りに動かない相手はゆるせないという激しい思いが湧き上がり、わたしたちの目を閉してしまうことがあるのです。

 たとえば、体がとても疲れているときには、ちょっとしたことでも腹が立ちます。「自分の思った通りになっていない」「なぜ誰もわたしを労わってくれないんだ」などと考えて、周りの人に怒りをぶつけてしまうのです。そんなとき、わたしたちは、自分がしもべであることを忘れているといってよいでしょう。しもべである以上、すべてが自分の思った通りになるはずはないし、労わられることよりも、むしろ、相手を労わることを考えるのがしもべの使命だからです。

 自分がしもべであることを忘れるとき、わたしたちは、歩むべき道を踏み外します。愛しあうどころか、相手を厳しく責めたり、憎んだり、争ったりするようになるのです。こちらが相手を厳しく責めれば、相手は必ず反撃してくるでしょう。道を踏み外し、やられたらやりかえすということを繰り返しているうちに、わたしたちは自分で自分を不幸の底へと追いやっていきます。自分がしもべであることを忘れ、主人のように振舞い始めたしもべは、自分で自分を滅ぼしてしまうのです。

 体が疲れているときだけでなく、仕事が忙しくて心にゆとりがないとき、不安なことがあって自分のことしか考えられなくなってるときなどにも同じことが言えるでしょう。問題は、自分がしもべであることを忘れ、自分のことしか考えられなくなること、まるで自分が主人であるかのようにふるまうことなのです。

 そんなわたしたちに、イエスは「目を覚ましていなさい」と語りかけます。わたしたちは、神のしもべに過ぎない。そのことを思い出せば、相手が自分の思った通りにならなくても当たり前だと思えるようになるでしょう。そして、自分の使命は、むしろ、自分の思った通りに動いてくれない相手をゆるすこと。その人たちと愛しあい、この地上に神の国を作り上げてゆくことだと思い出すでしょう。自分がしもべであることを思い出すとき、わたしたちは、正しい道に立ち帰り、幸せを取り戻すことができるのです。イエスの声に耳を傾けながら、いつも幸せへの道、平和への道を選んで生きられるよう祈りましょう。

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※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞお役立てください。

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こころの道しるべ(143)思いを受け止める

思いを受け止める

状況をコントロールし、
相手を自分の思うままに
動かそうとする人の周りには、
いつも緊張がただよいます。
状況を受け入れ、相手の思いを
受けとめようとする人の周りには、
いつも安らぎがあります。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(1055)王であるキリスト

王であるキリスト

 そのとき、議員たちはイエスをあざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ23:35-43)

 議員や兵士たちが、「もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」「ユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」といってイエスをあざける場面が読まれました。彼らの言葉は、まったく見当外れといわざるをえません。なぜなら、イエスは、自分を救うためではなく、自分を犠牲にすることによって人々を救うために遣わされたメシアであり、王だったからです。

 「王であるキリスト」というとき、キリストは二つの意味で王だったのではないかとわたしは思います。一つは、悪と戦い、人々を真理へと導く指導者としてキリストは王だったのです。ダビデは王として、イスラエルに攻め込んでくる敵の軍勢と戦うために人々を指導しましたが、キリストは王として、わたしたちの心に攻め寄せてくる悪の誘惑との戦いを指導してくださる方なのです。

 イエスは、言葉だけではなく、ご自身の生涯そのものによってわたしたちを指導してくださいます。イエスの生き方そのものが、わたしたちの人生を導く道しるべなのです。マザー・テレサはよく、「迷ったときには、イエスがいまここにおられたらどうするか考えなさい」といっていました。「この困っている人を前にして、イエスならどんな言葉をかけただろうか」「病気で苦しんでいるこの人を見て、イエスならどう行動しただろうか」、そう考えると、自然に何を言うべきか、何をすべきかが分かるということです。その人がどう行動するかを考えることで、自分がどう行動すべきかがわかる。そんな人こそ、真の指導者というべきでしょう。イエスは、真理を守り抜くために、十字架にさえつけられました。命がけで真理を生き抜くことによって、イエスは、時代を越えて人々を真理へと導く指導者になられたのです。

 キリストが王であるということのもう一つの意味は、キリストは、罪人であるわたしたちと共に苦しみに耐えてくださる方。死に臨んでも、わたしたちを決して見捨てない方だということです。自分に委ねられた民と共に生き、民と共に死ぬという意味で、キリストはわたしたちの王なのです。

 そのことが特によく表れるのが今日読まれた聖書の箇所です。この場面で、自分が犯した罪を背負って十字架につけられ、死んでゆく罪人たちは、わたしたち自身だと考えたらよいでしょう。わたしたちはイエスと共に真理のために戦い、真理のために生涯を捧げたいと願っています。しかし、弱い人間に過ぎないわたしたちは、最後まで完全にはなれないのです。イエスは、そんなわたしたちに最後まで寄り沿ってくださいます。そして、自らの罪深さを知り、悔い改めるわたしたちに、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と声をかけてくださるのです。

 十字架の死に至るまで真理を貫き、わたしたちに真理への道を示してくださった王。十字架上で死ぬことによって、罪深いわたしたちに最後まで寄り添ってくださった王。それがキリストなのです。このような王を与えられたことを感謝し、最後までこの王のあとについてゆくことができるよう、心を合わせて祈りましょう。

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こころの道しるべ(142)雄弁な沈黙

雄弁な沈黙

悲しみにくれる友だちに、
かける言葉もなく
寄り添い続ける人の沈黙。
その沈黙には、
どんな慰めや励ましの言葉よりも誠実な、
愛のメッセージが込められています。
そんなときには、
沈黙こそが最も雄弁な言葉なのです。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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