バイブル・エッセイ(1055)王であるキリスト

王であるキリスト

 そのとき、議員たちはイエスをあざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ23:35-43)

 議員や兵士たちが、「もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」「ユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」といってイエスをあざける場面が読まれました。彼らの言葉は、まったく見当外れといわざるをえません。なぜなら、イエスは、自分を救うためではなく、自分を犠牲にすることによって人々を救うために遣わされたメシアであり、王だったからです。

 「王であるキリスト」というとき、キリストは二つの意味で王だったのではないかとわたしは思います。一つは、悪と戦い、人々を真理へと導く指導者としてキリストは王だったのです。ダビデは王として、イスラエルに攻め込んでくる敵の軍勢と戦うために人々を指導しましたが、キリストは王として、わたしたちの心に攻め寄せてくる悪の誘惑との戦いを指導してくださる方なのです。

 イエスは、言葉だけではなく、ご自身の生涯そのものによってわたしたちを指導してくださいます。イエスの生き方そのものが、わたしたちの人生を導く道しるべなのです。マザー・テレサはよく、「迷ったときには、イエスがいまここにおられたらどうするか考えなさい」といっていました。「この困っている人を前にして、イエスならどんな言葉をかけただろうか」「病気で苦しんでいるこの人を見て、イエスならどう行動しただろうか」、そう考えると、自然に何を言うべきか、何をすべきかが分かるということです。その人がどう行動するかを考えることで、自分がどう行動すべきかがわかる。そんな人こそ、真の指導者というべきでしょう。イエスは、真理を守り抜くために、十字架にさえつけられました。命がけで真理を生き抜くことによって、イエスは、時代を越えて人々を真理へと導く指導者になられたのです。

 キリストが王であるということのもう一つの意味は、キリストは、罪人であるわたしたちと共に苦しみに耐えてくださる方。死に臨んでも、わたしたちを決して見捨てない方だということです。自分に委ねられた民と共に生き、民と共に死ぬという意味で、キリストはわたしたちの王なのです。

 そのことが特によく表れるのが今日読まれた聖書の箇所です。この場面で、自分が犯した罪を背負って十字架につけられ、死んでゆく罪人たちは、わたしたち自身だと考えたらよいでしょう。わたしたちはイエスと共に真理のために戦い、真理のために生涯を捧げたいと願っています。しかし、弱い人間に過ぎないわたしたちは、最後まで完全にはなれないのです。イエスは、そんなわたしたちに最後まで寄り沿ってくださいます。そして、自らの罪深さを知り、悔い改めるわたしたちに、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と声をかけてくださるのです。

 十字架の死に至るまで真理を貫き、わたしたちに真理への道を示してくださった王。十字架上で死ぬことによって、罪深いわたしたちに最後まで寄り添ってくださった王。それがキリストなのです。このような王を与えられたことを感謝し、最後までこの王のあとについてゆくことができるよう、心を合わせて祈りましょう。

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