バイブル・エッセイ(1056)しもべとして生きる

しもべとして生きる

「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」マタイ24:37-44

 イエスが弟子たちに、「目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである」という場面が読まれました。「目を覚ましている」というのは、この場合、自分がしもべであることを忘れず、主人から与えられた使命を忠実に果たすことだといってよいでしょう。そのような姿を主人に見られるなら、そのしもべは幸いだということです。

 主人であるイエスからわたしたちに与えられた使命、それは、互いに愛しあうことに他なりません。その使命を果たしている限り、わたしたちはいつも、満たされた心で平和に生きられるのです。しかし、わたしたちは、ついこの使命を忘れてしまいがちです。心の中から、すべてを自分の思った通りに動かしたい、自分の思った通りに動かない相手はゆるせないという激しい思いが湧き上がり、わたしたちの目を閉してしまうことがあるのです。

 たとえば、体がとても疲れているときには、ちょっとしたことでも腹が立ちます。「自分の思った通りになっていない」「なぜ誰もわたしを労わってくれないんだ」などと考えて、周りの人に怒りをぶつけてしまうのです。そんなとき、わたしたちは、自分がしもべであることを忘れているといってよいでしょう。しもべである以上、すべてが自分の思った通りになるはずはないし、労わられることよりも、むしろ、相手を労わることを考えるのがしもべの使命だからです。

 自分がしもべであることを忘れるとき、わたしたちは、歩むべき道を踏み外します。愛しあうどころか、相手を厳しく責めたり、憎んだり、争ったりするようになるのです。こちらが相手を厳しく責めれば、相手は必ず反撃してくるでしょう。道を踏み外し、やられたらやりかえすということを繰り返しているうちに、わたしたちは自分で自分を不幸の底へと追いやっていきます。自分がしもべであることを忘れ、主人のように振舞い始めたしもべは、自分で自分を滅ぼしてしまうのです。

 体が疲れているときだけでなく、仕事が忙しくて心にゆとりがないとき、不安なことがあって自分のことしか考えられなくなってるときなどにも同じことが言えるでしょう。問題は、自分がしもべであることを忘れ、自分のことしか考えられなくなること、まるで自分が主人であるかのようにふるまうことなのです。

 そんなわたしたちに、イエスは「目を覚ましていなさい」と語りかけます。わたしたちは、神のしもべに過ぎない。そのことを思い出せば、相手が自分の思った通りにならなくても当たり前だと思えるようになるでしょう。そして、自分の使命は、むしろ、自分の思った通りに動いてくれない相手をゆるすこと。その人たちと愛しあい、この地上に神の国を作り上げてゆくことだと思い出すでしょう。自分がしもべであることを思い出すとき、わたしたちは、正しい道に立ち帰り、幸せを取り戻すことができるのです。イエスの声に耳を傾けながら、いつも幸せへの道、平和への道を選んで生きられるよう祈りましょう。

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