フォト・エッセイ(81) 冬の京都③〜建仁寺から高台寺へ〜


 暖かい縁側でのんびりとした時間が過ぎていった。気がつくと、周りに観光客の数が増え始めていた。少し騒がしくなったので、やや未練を残しつつ縁側から立ち上がり次の庭に向かった。建仁寺の方丈には「大雄苑」の他にもいくつか庭があるのだ。
 その中の一つの庭に向かって、またしばらく腰を下ろした。苔が一面に生え、その中央にごつごつした岩がいくつか配置してある庭だった。日陰の冷え冷えとした空気の中からその庭をじっと見つめているうちに、ふと中央に置かれた岩が自分自身と重なって見えてきた。無造作に置いてあるように見える、ごつごつした荒々しい岩だ。
 その岩は、決して美しいものとは言えない。だが、そのありのままのいびつな姿が、他の岩や苔との調和の中でなんとも言えず美しい世界を作り出している。バランスを欠いた岩のでこぼこにさえ、愛おしさが感じられる。その美しさに気づいたとき「ああ、わたしもありのままでいいんだ」ということに気づいた。たくさんの欠陥を抱えた罪深いわたしも、あの岩のように黙ってありのままの姿で生き続けているならば、周りの世界との調和の中である種の美を生きていくことができるはずだ。変に取り繕ったり、自分の姿を隠そうとすれば、決して調和が生まれることはないだろう。自分のありのままを認め、ただその姿で佇立し続けることから美が生まれるのだ。禅の庭は、本当にいろいろなことを教えてくれる。
 ヨーロッパ人なら岩を精密に刻んで彫像を作り、それを庭に飾るかもしれない。ありのままの岩を無造作に置くところに、日本人の日本人らしさが現れているようだ。そんなことを考えながら建仁寺の庭を離れ、高台寺へと向かった。







※写真の解説…1、2枚目、建仁寺の庭園。3枚目、建仁寺高台寺の間にある石塀小路。4枚目、高台寺の庭園。