一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。(マルコ12:28-34)
作家の曽野綾子さんが『誰のために愛するか』という本の中で、「愛するとは、相手のために死ねるということだ」とおっしゃっています。見えない神を愛するときにも、この言葉は当てはまるでしょう。神を愛するとは、神のために死ねるということなのです。
神のために死ぬとは、実際に殉教することだけを指すのではありません。どんなにひどいことをされたとしても神の愛に忠実でありたいという一心でゆるそうとするとき、受け入れがたい相手であっても神への愛ゆえに受け入れようとするとき、自分の評価を顧みずただ誰かのためになりふりかまわず行動するとき、わたしたちは神のために死んでいるのです。
神を愛するという言葉は、そのような行動によって証されたとき初めて真実なものになるのだとわたしは思います。もしどれだけ口先や心で「わたしは神を心の底から愛しています」と言っていたとしても、次の瞬間に人の悪口を言ったり、妬みや怒りに燃えたりするならば、わたしたちは神を愛してなどいないのです。そんなときわたしたちは、ただ自分のことだけを愛しているのです。
そう考えると、第一の掟「あなたの神である主を愛しなさい」と第二の掟「隣人を自分のように愛しなさい」は表裏一体であることが分かります。神を愛するというわたしたちの言葉は、隣人を自分自身のように愛し、神への愛のゆえに自分を捨てたときにのみ真実なものとなるのです。神を愛するということと、隣人を愛するということは一つなのです。第二の掟を守れたときにだけわたしたちは第一の掟を守ったと言えますし、第一の掟を守れたときわたしたちは自然に第二の掟も守ることになるのです。
日々の生活の中で自分のすべて、心も、知恵も、力も全てを尽くして神のために自分を捨てることができるよう、神の愛の実践に自分の生きている時間と力のすべてをかけることができるよう願って祈りましょう。
※写真の解説…「ジョージ・バーンズ」という品種のバラ。伊丹市、荒牧バラ園にて。