マザー・テレサに学ぶキリスト教(17)教会とは何か②「神の民」としての教会

第17回教会とは何か②「神の民」としての教会 
 前回、教会は全人類の救いのための秘跡、すなわち「見えない神の恵みの体験可能なしるし」だという話しをしました。教会の体験可能なしるしとは、一体何なのでしょうか。それは、現代において何よりも「神の民」であるわたしたち一人ひとりだと考えられています。わたしたち一人ひとりが神の恵みの目に見えるしるしとなる使命を負っているということです。その意味で、秘跡としての教会は、「神の民」としての教会とほとんど同じだということができます。今回は、教会を見るときのもう一つの視点である「神の民」の視点から、教会について考えてみようと思います。

1.秘跡としての「神の民」
 教会が「目に見えない神の恵みの体験可能なしるし」だとすれば、そのしるしは何にあるのでしょうか。教会建築、教会音楽なども、神の愛の目に見える「しるし」だということができるでしょう。なぜなら、すばらしい教会建築や教会音楽に触れることで、人は神の偉大さや慈悲深さ、美しさなどに触れることができるからです。
 ですが、人間イエスの最もはっきりした「しるし」は、やはり教会の構成員であるわたしたち信者一人ひとりだろうと思います。人間だけがイエスの言葉を地上に宣べ伝え、イエスのように微笑み、イエスのように苦しんでいる人の傍らに立ち、イエスのように不正に対して立ち上がることができるからです。わたしたち一人ひとりの信者は、イエスを人々に思い起こさせることで、神の恵みをこの地上に表す「しるし」になることができるのです。
 第二バチカン公会議の教会憲章は、神の民が「生命と愛と真理の交流のためにキリストによって設立され、すべての人のあがないの道具として採用され、世の光、地の塩として全世界に派遣されている」(第9節)と宣言しています。ここでいう「あがないの道具」こそが、秘跡としての教会に他なりません。
 マザー・テレサの模範にならって、わたしたちもわたしたちの存在そのものを通してイエスの微笑み、イエスの共感、イエスのぬくもりを地上の隅々にまで伝えていきたいものです。

2.信徒、修道者、聖職者
 「神の民」は、信徒、修道者、聖職者の3つのグループから成り立っています。「神の民」全体を表す言葉は、「信者」です。教皇様でも誰でも、洗礼を受けたカトリック信者は、みな同じ信者です。信徒と信者が混同されることがありますが、正確な用法を覚えておくといいでしょう。
 信者の中で最も数が多いのは言うまでもなく信徒ですし、信徒は世俗の中にとどまって福音宣教をする使命を与えられています。その意味で、「神の民」が全人類のための救いの秘跡であるという場合に、もっとも大きな「しるし」は信徒だということができるでしょう。
(1)聖職者…司教、司祭、助祭のことです。叙階の秘跡を受けることによって、男子の信者は聖職者になることができます。修道者であっても、叙階の秘跡を受けていなければ聖職者ではありません。
(2)修道者…教会によって認可された修道会に所属し、清貧、貞潔、従順という3つの誓願を立てた信者のことを修道者と呼びます。マザー・テレサは「神の愛の宣教者会」という修道会に所属する修道者でした。
(3)信徒…叙階の秘跡を受けず、修道会にも所属せずに、世俗の中にとどまって福音宣教をする使命を与えられた信者のことを信徒と呼びます。

3.信徒概念の変遷
 「神の民」の大多数を占める信徒の教会内での取り扱いは、時代によって変化してきたようです。
(1)古代…教会が迫害を受けていた古代には、信徒と聖職者の違いよりは、教会に属する「神の民」と教会外の人々の違いが強調されていたようです。信徒と聖職者は、同じ「神の民」として一致を保っていました。
(2)キリスト教の国教化キリスト教が国教化され、キリスト教徒が社会の大部分を占めるようになると、教会内での役割の違いとしての信徒と聖職者の違いが強調されるようになりました。しだいに聖職者が上級の信者として扱われるようになり、教会の中に聖職者優位の構造が出来上がっていったのです。
(3)中世…中世になると、十分な教育を受けた聖職者層と、読み書きも不十分にしかできない信徒層という構造が出来上がっていきました。聖職者は学者、賢者として、信徒は無学な愚者として扱われるようになっていったのです。
(4)近代啓蒙思想が台頭し、聖なる権威ではなく世俗に価値があると考えられるようになったのに伴って、信徒の立場も再評価されるようになりました。「神の国」はこの世俗であるこの地上にこそ実現されるべきだと考えられるようになったのです。
 このような動きの中で、教会の権威主義を嫌ったマルティン・ルターは聖職者制度を廃止し、万人が司祭である教会を作ることを目指しました。ルターは聖職者制度の代わりに牧師制度を導入し、信徒としての牧師に教会を司牧する役目を与えました。
(5)現代…第二バチカン公会議の教会憲章は、「キリストの体の建設に関しては、すべての信者に共通の尊厳と働きの真実の平等性がある」(第32節)と宣言しました。秘跡としての教会の働きにおいて、信徒と聖職者はまったく対等であることを宣言したのです。これは、教会の歴史の中でまったく画期的な出来事だということができます。

4.信徒の使徒
 では、信徒は実際にどのようなやりかたで「キリストの体」、「神の恵みの体験可能なしるし」となっていくのでしょうか。第二バチカン公会議は、信徒がキリストの三職に与っているという表現でそのことについて説明しています。キリストの三職とは、祭司職、預言職、王職のことです。
(1)祭司職…キリストは、自らの生涯を神に捧げ、十字架上でご自分の命までも捧げることで神と人間の交わりを完全に回復しました。その意味でキリストは、生贄を捧げることで神と人間の交わりを回復した旧約の祭司の仕事を引き継いだと考えられます。キリストは、旧約の祭司たちの仕事を完成したということです。このキリストの祭司職を引き継いで、信徒は日々の生活の中で自己を犠牲にして神のために行動し、その犠牲をミサで神に捧げる使命を負っています。
(2)預言職…キリストは、神の言葉を語り、病を癒し、貧しい人々と共にいることによって神の愛を証しました。このキリストの預言職を引き継いで、信徒は日々の生活の中で言葉と行いによって神の愛を証する使命を負っています。
(3)王職…キリストは、①王的な自由さで罪の支配に打ち勝ち、また②へりくだって人々に仕えることで王の位にまで挙げられました。このキリストの王職を引き継いで、信徒は日々の生活の中で毅然として悪を退け、人々に奉仕することで王となる使命を負っています。

5.信徒に固有の務め
 キリストの三職はすべての信者に与えられた務めですから、聖職者も信徒もそれぞれのやり方でこの務めを果たしていかなければなりません(信徒使徒職)。信徒に固有の務めとして以下の2つを挙げることができるでしょう。
(1)家庭生活における証…信徒は結婚して自分たちの家庭を築きあげ、その中で円満な家族関係や子育てを通してキリストの三職を全うしていくことができます。聖職者は、終身助祭を除いて結婚していませんから、結婚による証をすることができません。
(2)社会の中での証…信徒は、社会の中で経済的、政治的に重要な役割につき、社会を動かしていく中でキリストの三職を全うすることができます。聖職者は通常、会社で働くことはありませんし、また政治家になることも禁じられています。

6.信徒と司祭、修道者の新しい関係
 教会が「神の民」として理解されるようになってから、教会の中での信徒と司祭の役割分担が見直されつつあります。これまでのような司祭、修道者中心の教会ではなく、信徒と司祭、修道者が対等の立場から福音宣教の責任を担っていく教会に変わっていくための見直しです。
 この見直し作業に答えはありません。話し合いを積み重ね、一番ふさわしい形を共に探していく以外にないでしょう。しばらくは不安定な時期が続くかもしれませんが、教会が生まれ変わるための試練のときとして乗り越えていく以外ありません。最後に、参考資料を上げておきますので、皆さんも信徒と司祭、修道者の関係の新しい形について考えてみてください。

《参考資料》大阪大司教区とイエズス会の司牧方針

1.大阪大司教区の方針
1998年『新生の明日を求めて』
(1)今までの推移
第二バチカン公会議「教会は救いの普遍的秘跡
⇒日本の教会の対応
①1987年「第一回福音宣教推進全国会議」(NICE1)
信仰と生活の遊離、教会と社会の遊離の現実を打開し、「開かれた教会づくり」を目指す。
②1993年「第二回福音宣教推進全国会議」(NICE2)
「家庭の現実から福音宣教のあり方を探る」。「分かち合いを通しての共感と共有」による識別を進める。
⇒大阪教区の対応
①1988年〜2007年 生涯養成委員会
②1994年 共同宣教司牧の実施。
「信仰共同体である教会をさらに実質的な共同体に発展させるためにも、信徒が本来の召命と使命をよりよく果たすようになっていくためにも、司祭自身が共同体で暮らすことの意義の大きさということからも、共同宣教司牧の実施が持つ意味は大きなものがあります。今後も、教会の共同体性を具現化するための重要な方策として、この共同宣教司牧を拡大発展させていくことを目指していきます。」
(2)阪神淡路大震災と教会の対応
①「教会の建物はなくなったが、本当の教会が生まれた。」
⇒教会の外に出て苦しんでいる人々のもとに行き、苦しんでいる人々と共に生きる中で福音宣教を行う(福音宣教を通しての社会正義の実現)。「交わりと証し」を現実に生きることによって実現していく。
②共同宣教司牧
 司祭不足に対応するための緊急対応ではなく、教会の本質である共同体性を具体化するための方策。
(3)21世紀ビジョンとしての展望
①「谷間」に置かれた人々の心を生きる教会。
⇒キリストは「谷間」に出かけていった。キリストと出会うためには「谷間」に出向く必要がある。
②「交わり」の教会。
⇒ミサから恵みをもらって帰るだけの教会ではなく、共同体の交わりを通して信仰を深めていく教会。
「知り合って10年にもなるのに、ほとんど他人のような関係のままであったり、行事以外のことを話し合うことがなかったりする姿、お互いや主任司祭に関する噂話ばかりしながら、ほとんど信仰について語り合うこともない姿、意地を張り合ってお互いに交わりを拒否している大人の信仰者の姿を見せつけられていて、子どもたちや青年が教会に魅力を感じるわけがありません。」
③共同責任を担いあい、協働する教会。
聖霊の導きを識別しながらともに歩む教会。
⑤司祭・修道者との協力を重視しながら、信徒の役割と責任(使命)を前面に出す教会。
⇒「信徒はお客ではなく営業マン」。「ガソリンスタンドで燃料を積み込んで、福音宣教に出発していくイメージ」。

2.イエズス会の方針
・1989年「教会における司牧宣教のビジョン」
(1)基本方針
教会=①イエス・キリストにおける神の御言葉によって救われた人々の集い。
    ②世界に向かってその救いを証する宣教の使命を共有する共同体。
⇒①現実的に具体的に「信徒の教会」が具現するよう努める。
  ②各小教区間の交流を深めることを通して、教会共同体の活性化と発展を図る。ブロック制度を確立する。
(2)「信徒の教会」
信徒の教会=信徒が主体性を発揮して営まれていく教会。
①司祭が全面的に責任を負い、決定を下すという現在なお支配的な形態を見直す必要がある。
②小教区が自らのうちに閉じこもることなく、周囲の地域社会に開かれた態度を示すこと。
修道院共同体、カトリック学校、諸々の施設や事業体との協力態勢のもとに、地域に福音宣教を行う。
★大前提
十二使徒の後継者である司教との一致の中になければ、いかなる行動もカトリック的ではありえない。

・2009年イエズス会日本管区教会使徒職に関する方針」
(1)教会使徒職におけるイエズス会員と信徒の協働を実施する。
⇒Jesuit Pastoral Apostolate Collaboration Team(JPACT)の発足。
(2)教会使徒職において正義と平和をさらに促進していく。
⇒六甲教会については、大阪教区や「旅路の里」と連携しながら正義と平和を促進する。
(3)教会使徒職における若い人々への司牧を促進する。
(4)イエズス会員と信徒のキャリアを生かした協働を促進する。
(5)協働の方針に伴うイエズス会員の養成を促進する。