バイブル・エッセイ(216)神の小羊の婚宴


神の小羊の婚宴
「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。」(マタイ22:1-10)
 聖書の中には、神と人との間に和解が成立するとき、神がわたしたちのために喜びの宴会を準備してくださるという話がよく出てきます。その中でもこの世の終わりに神と人とが完全に和解し、もはや断ち切られることのない絆が結ばれたときの祝宴は、結婚式の宴会、すなわち婚宴に譬えられます。今日読まれた福音箇所や、黙示録に語られる「小羊の婚宴」の箇所がそれです。
 これは本当に意味深い譬えだと思います。婚宴の席でわたしたちは、これまで多くの苦しみや試練を1人で乗り越えてきた友が、ついにそれらを共に担う伴侶を与えられたことを心の底から喜びます。そして、この幸せがいつまでも続くようにと心を一つにして祈るのです。こうして、婚宴に招かれた人々の心は喜びと祈りのうちで一つに結ばれていきます。婚宴には、普通の宴会にはない特別な力があるのです。
 世の終わりに、わたしたちは「小羊の婚宴」に招かれます。その婚宴で結ばれるのは、イエス・キリストとわたしたち教会です。これまで地上の苦しみや試練を1人で乗り越えてきたわたしたちの心は、ついにそれらを完全に分かち合ってくれる伴侶を与えられた喜びに踊ります。そして、心を一つにしてこの幸せを神に感謝します。こうして、「小羊の婚宴」に招かれたわたしたちは、喜びと祈りの中で「神の国」の一つの家族として結ばれていくのです。このような意味で、婚宴こそ「神の国」でわたしたちの間に起こる出来事を最も適切に表す比喩だと言っていいでしょう。
 ミサの食事は、「最後の晩餐」のかたどりであると同時に、この「小羊の婚宴」の先取りだとも言われています。ミサの中で、わたしたちはイエスに救われる大きな喜びを共に祝い、共に祝うことで深められた喜びを世界中に分かち合う使命を与えられるのです。家にやり残してきた仕事や商売のことを考えたり、神の思いに逆らう復讐や憎しみの思いにとらわれて上の空になったりすることなく、全身全霊でこのミサに与りましょう。1つの喜びに満たされ、1つの祈りを共にするとき、わたしたちはこの地上でも神の家族として結ばれることでしょう。 
※写真の解説…散歩道で見かけた花。長野県軽井沢町にて。