バイブル・エッセイ(230)喜び、祈り、感謝


喜び、祈り、感謝
★このエッセイは、12月11日カトリック六甲教会主聖堂にて行われた洗礼式ミサでの説教に基づいています。
 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。(一テサロニケ5:16-24)
 喜び、祈り、感謝、これらは別々のものでありながら、実は一つに溶け合ったものであるように思います。喜びながら祈っている人は必ず感謝していますし、祈りのうちに感謝している人は必ず喜んでいますし、感謝して喜んでいる人は存在自体が祈りだと言えるからです。では、どうしたらいつも喜び、祈り、感謝していることができるのでしょう。その鍵は、謙遜にあるとわたしは思います。
 例えば、教会学校のリーダーという仕事が与えられたとしましょう。こんな子どもたちを教える仕事は自分にはふさわしくない。自分はもっとたくさんの大人たちから尊敬される仕事につくべき人間だと思いあがっている人にとって、教会学校でリーダーをすることは苦痛でしかないでしょう。しかし、こんなとるに足りないわたしになついてくれる子どもたちがたくさんいる。「リーダーの顔が見たい」と言ってくれる子さえいる。自分はなんと恵まれているのだろうと思える人の心には、喜びと感謝、そして祈りがあります。
 老人の介護というような仕事でもそうでしょう。お年寄りのオムツを替えたり食事の世話をしたり、こんな仕事は自分にふさわしくない。自分はもっと目立つ業績を上げて、人から評価されるべき人間だと思いあがっている人にとって、老人の介護はストレス以外の何ものでもないでしょう。しかし、こんな罪びとのわたしでも必要としてくれる人がいる。なんと有難いことだろうと思える人の心には喜びと感謝、そして祈りが生まれるのです。
 このように、謙遜な心からは喜び、祈り、感謝が生まれるのに対して、傲慢な心からは喜びではなく苦しみが、祈りではなく呪いが、感謝ではなく怒りが生まれます。謙遜さこそ、聖霊の火を心に灯し続け、キリスト者として生きていくための必要条件だと言えるでしょう。
 今の話を聞いてピンと来た人もいるかもしれませんが、教会学校のリーダー、そして老人の介護というのは、今日受洗するU君がいつもしている仕事です。U君がこれからも謙遜さのうちにこれらの仕事を続けられるように、そして今日からU君と一つの教会家族として結ばれるわたしたちも、謙遜さのうちにいつも喜び、祈り、感謝していることができるようにと主に願いましょう。
※写真の解説…U君、受洗の瞬間。侍者をしているのは、音楽家のこいずみゆりさん。カトリック六甲教会主聖堂にて。